坂梨村
date about Sakanashi village, Aso.
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阿蘇たにびと博物館は、阿蘇谷・南郷谷に生きる「谷人」たちの文化と自然との
関わりを調べ、それを伝えていく博物館です。
aso tanibito assomusee is the museum to associate the people together.
こちらの図録資料をプリントアウトして参加されればなお詳しく愉しめるかと思います。
坂梨村
(『阿蘇郡誌』大正15年発行より抜粋。旧字は新字に改め、句読点を適宜付加した)
1. 位置
坂梨村は本県元標を東に距る13里、本郡の中央に在り、東は波野村、西は宮地町、北は古城村に接し、南は根子岳を
隔てて色見村に接す。
2. 地勢
地勢南北に長く、坂梨・北坂梨の2大字より成る。村の中央を大分県道を貫通し、之に沿ひて約200の市街をなし、
概ね平地なり。村の東南部には高原をなし、全村の3分の1を占む。
3. 沿革
明治維新前、郡に郡代のある頃は、現今の宮地町(当時の宮地村、西宮地村、東宮地村、北宮地村、分り西宮地村)、
古城村(当時の上野中村、下野中村、上三ヶ村?、手野村、尾籠村)、中通村(井手村、中原村、下原村)、坂梨村(当時
坂梨町、古閑村、馬場村、北坂梨村)の各地を総て坂梨手永と云ひて、坂梨に会所を置き、総庄屋之を統治す。俗に
上手永と云ひ、左の役員を置けり。
総庄屋 横目役 勧業誘方 塘方 庄屋(村) 別当(町) 頭百姓 町頭
明治4年の頃、大区小区を置き、今の坂梨・北坂梨の地方を第36大区の第3小区といひ、大区に区長を置き、坂梨に
里正役場を置き、里正小区を治む。村に用係あり。
明治6年頃より、今の坂梨、古城、宮地、中通の4村を11大区の第3小区とし、区長前の如く戸長役場を坂梨に置き、
戸長其の小区を治む。
後明治12年の頃、今の坂梨・古城の2村、第3小区より分離し、坂梨、北坂梨、三野、手野、4村の聯合村となり、
戸長之を統治す。坂梨村外3ヶ村役場を坂梨に置く。
明治22年、町村制の発布に由り、古城と分離して今の坂梨村となり、戸数約400戸、村長之を治むるに至れり。歴代の
統治者次の如し(略)。
4. 教育
(1) 坂梨尋常高等小学校 明治6年6月、本村大字坂梨北駄原に創設す。仝11年3月、字平口(へいぐち)
に移転し隆盛学校と称す。仝20年10月、現行地に新築移転し、梨陽学校と改称す。仝44年5月、校舎の増築をなす。大正11年4月、
高等科を併設し、坂梨尋常小学校と改称す。
(2)坂梨農業補習学校 大正7年8月19日創設し、校舎を坂梨尋常高等小学校に置く。其の
教育状況前に大同小異なり。
5. 産業
本村戸数約400戸中、農業専業254戸、商業専業45戸、工業専業20戸、職工及び力役専業21戸、官公吏15戸といふ割合なり。
商業は主として中央市街区域に行はる。
坂梨村
(『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、昭和57年より。執筆は松嶋桂一氏)
阿蘇郡一の宮町の1地区。旧坂梨村。明治22年(1889)北坂梨村の一部と合併、坂梨村を設置。藩政時代は坂梨手永会所と
関所が置かれ、豊後街道の難所・滝室坂を控えた宿場町で国鉄豊肥線開通までにぎわった。西南戦争では官、薩両軍の間で
滝室坂をめぐる激戦があった。山岳、高地では畜産がさかんで、平野部は南部が水田と畑地。火山灰土壌で水稲、トウモロコシ、
桑などを栽培。北部は水田地帯。昭和29年(1954)宮地町、古城、中通両村と合併、一の宮町となる。
豊肥本線 鹿児島本線熊本駅と日豊本線大分駅を結ぶ延長148kmの国鉄路線。全線開通したのは
昭和3年(1928)である。九州を横断する輸送路として重要な役割を果たしてきた。立野駅―赤水駅間のスイッチバックは有名。
豊肥本線のピークは貨物が昭和40年(1965)、旅客が48年であるが、54年には貨物でピーク時の60%、旅客で80%に落ち込んだ。
旅客も通勤、通学が主体で、九州の東西を結ぶ幹線輸送路としての性格を薄めつつある。(同事典より。執筆は山野憲一氏)。
坂梨トンネル 国鉄豊肥線の宮地―波野駅の間、阿蘇山外輪山を断続的に貫く総延長3746mの
トンネル。外輪山の妻子ヶ鼻(640m)の麓から、天狗、神石、堂山、願成就の各トンネルを経て、最長の坂ノ上トンネル(長さ
2283m)までの5つのトンネルを通ると、標高800mの波野高原に出る。昭和3年(1928)に完成した。厳冬期にはトンネル内に
しみ出る地下水が長さ1〜2mの大ツララをつくるので、毎朝3時頃からツララ落しが始められる(同事典より。執筆は首藤正幸氏)。
滝室坂
(『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、昭和57年より。執筆は首藤正幸氏)
阿蘇谷の東端、一の宮町坂梨から東外輪山にいたる標高差約220mの急坂。旧道はかつての豊後往還で、参勤交代や駄馬の
往来でにぎわった。ふもとに旧宿場町の坂梨がある。カルデラ内壁の坂道は谷が深く溶結凝灰岩が柱状の節理をなし、真上に
垂直の懸崖がそびえる。旧道の北壁に沿う国道57号線は、交通量が多い。冬はしばしば凍結する。旧道は昔の面影も薄れ今では
雑草に埋もれ、通る人もない。急坂を上りきると背後に阿蘇の五岳が望まれる。
豊後街道 九州中部の山地を越え、熊本から豊後鶴崎に至る街道。肥後4街道の1つ。コースは
熊本市新町1丁目札の辻を起点とし、藤崎台から京町で豊前(小倉)街道と分かれ、立田口(坪井の赤鳥居)、子飼を通り、
これから大体今の国道57号線沿いに大津町、清正公道(せいしょこどう)、二重(ふたえ)の峠で外輪を越え、阿蘇内牧、
坂梨、豊後の久住、野津原を経て豊後鶴崎に至る。豊臣秀吉の天下統一後、大坂が政治の中心となり、熊本と中央を結ぶ
重要なルートとして整備された。加藤清正は天正16年(1588)入国以来、この街道を往復しており、細川氏も参勤交代のとき、
大坂に行く最短の道としてほとんどこの街道を利用した。街道には一里木から始まり三里木までの里数木が植えられ、旅程の
目印となり、緑陰は旅人、荷馬車の休憩所となった。また並木も植えられ、杉並木は熊本市浄行寺から大津を経て二重の峠まで
続き、笹倉―大利―久住の沿道には松並木が昭和20年代まであった(同事典より。執筆は岩本正教氏)。
二重の峠 菊池郡大津町から阿蘇外輪山を越え、阿蘇谷へ下る豊後街道上にある峠。「ふたえとうげ」
ともいう。標高683m。伝承によると阿蘇開発の神健磐龍命(たけいわたつのみこと)が満々とたたえた湖水を排水して美田にしようと、
外輪山の一角を蹴られたが、蹴破ることができず、よく見るとそこが二重になっていたところから、この名がついたという。
藩政時代は参勤交代の重要ルートであった。明治17年(1884)立野回りの新道が出来てからはさびれたが、今も残る石畳の道は昔を
しのばせる(同事典より。執筆は岩本正教氏)。
清正公道 豊後街道のうち、菊池郡大津町から阿蘇郡阿蘇町二重峠までの道。加藤清正にちなんで
この名がある。大津町から北へ、上大津を経て東、阿蘇外輪山のすそ野、高尾野、新小屋などの集落を通り、くぼ地の多い坂道を約
14km上り、二重峠に達する。道の両側に茂っていた杉並木は、明治初年に伐採された。明治17年(1884)比丘尼谷の難工事により立野
火口瀬を抜け熊本から阿蘇に至る新道が開通して以来、この道の交通上の重要性は薄れた(同事典より。執筆は岩本正教氏)。
歴史の道
(滝室坂旧道入口にある案内板より。設置は文化庁、熊本県、一の宮町)
参勤交代の道(往復)
徳川幕府は大名統制のため、寛永12年(1635)1年おきに江戸在府と在国を繰り返す参勤交代を制度化しました。肥後藩の
参勤交代道の1つ豊後街道は熊本城(札の辻)・大津・二重峠・的石・内牧・坂梨・笹倉・大利(以上肥後国内)久住・野津原・
鶴崎(以上豊後国内)に至る31里(124km)で5日を要しました。参勤交代は鶴崎より藩の御座船「波奈之丸」(なみなしまる)で
海上128里・東海道133里、豊後街道31里を含め35〜36日がかりの旅でした。一の宮町の参勤交代道は、阿蘇町境の塩塚より坂梨を
経て滝室坂を越え波野村境坂の上までです。札の辻を起点として1里ごとに里数木が置かれました。里数木は5間(約9m)四方、
高さ1mの塚を街道の両側に土盛してその上に大榎が植えられました。旅人に緑陰と休息を与えると共に人負や馬等を雇ったときの
駄賃の目安や歩行の目標ともなりました。札の辻から12里木に当たる塩塚、13里木に当たる坂梨にはそれぞれ道標が建てられて
います。坂梨は豊後街道、日向、野尻往還の要衝宿場として、また政治文化経済の接点として栄えました。細川藩公が休息・宿泊
した坂梨お茶屋もあり文献によると、鍋島、立花、相良、薩摩藩などの大名も利用したといいます。
阿蘇の山道は急坂でしかも火山灰土の為、雨のたびごとに、損傷が激しく公役としての道普請は大変な労力を費やしたものでした。
そのために、二重峠、滝室坂などは石畳が整備され滝室口から坂の上までの高低差200m、全長3kmを一気に越えゆく滝室坂は峻険
そのもので、すべて石畳で「大阪に坂なし、坂梨に坂あり」と古くから俚言が伝わっています。
参勤交代は出府、就府のその都度藩公から万民に至るまで多大の犠牲と負担を負わせた半面、豊後街道は、多数の人々の
上り下りにともない、江戸をはじめ京、大阪の文化や風俗を直接阿蘇に伝え、華美を競った元禄文化、質素を尊ぶ享保の殖産、
天保の改革の施政、江戸幕府の「一張一弛」(いっちょういっし)が阿蘇に直ちに普及したこともまた事実です。
平成2年7月当地方を襲った大水害で特に滝室坂の石畳は損傷が甚大で現在は途中までしか見ることができません。大大名としての
細川藩公がその格式にふさわしく数百、千の供侍を従え行き来した「歴史の道」の当時をしのびゆっくりと歩を進めてみて下さい。
7・2水害
(国交省熊本河川国道事務所のページより加筆)
九州南部に停滞していた梅雨前線は、平成2年7月1日になり、北上して活動が活発化しました。一方、東シナ海
の低気圧も北部九州に接近し、このため熊本県では県北部及び阿蘇地方を中心として、1日の深夜から
集中豪雨に見舞われ、この雨は2日の夕方まで降り続きました。
家屋浸水324戸、浸水面積23ha。上流阿蘇地方では死者12名、全半壊家屋147棟、床上・床下浸水2427棟。
なお、このときの水害にも坂梨の眼鏡橋は流されずに残っている。
眼鏡橋(一の宮町指定文化財)
(『広報いちのみや』昭和39年9月号より。執筆は渡辺文吉氏)
種山石工作る 中町の『めがね橋』(坂梨校百年史より)
上益城郡矢部の通潤橋は、かって国定教科書にのせられたため、今日では全国的に知られた名橋であります。また皇居の
お堀にかかる二重橋は、皆さん百も御承知のところです。しかしふるさと人のいう中町の石橋(めがね橋)は、ひよっとしたら
よその者は気づかぬままに、過ぎ去ることもあるでしょう。今日では手すりの石がトラックにはねとばされ、コンクリートで
ついだり、はいだりの状態で、いささか尾羽うち枯らしたという感があります。交通禍はどうも人間ばかりではないようで、
この橋の場合まことに惜しいことです。ところで之等3つの橋は、何れも血の通った同じ系統の作なのであります。3橋共に
その架設は八代郡旧種山村(現東陽村)の、いわゆる「種山石工」によってなされました。しかも架設の年代は、坂梨の石橋が
弘化4年(1847)、通潤橋安政元年(1854)、二重橋明治6年(1873)の順となります。棟梁は坂梨が卯助、後の2つは丈八
(後姓を賜って橋本勘五郎)でありました。中町と下町の境にかかるこの橋の、天神様に寄ったたもとの大石に「弘化四年丁未
寿吉辰 八代郡横山手永 棟梁石工 卯助」と刻みこんだ人は、当時姓すらもない身分であったのです(丈八の長兄を宇助と
いいます)。工事は弘化2年7月には始まっていたもようです。桜町の平岡善信さん方には、当時の石工栄七という人が、先祖に
おくったと伝えられる仏像約160体の図解説明書があります。それに弘化2年の文字が記されています。完成までに足かけ3年は
要したのでしょう。
卯助の心意気はまことに見上げたものでした。架設工事が大詰めに来て、そして最後の1石を頂天にはめ込むという日、彼は
紋服に威義を正し、その真下に正座したと伝えられます(坂梨素純さんの談)。昨年に亡くなった熊日の豊福さんには郷土関係の
著が多いが、その中に「熊本名匠伝」があります。橋本勘五郎の項によれば「石の拱橋は従来の木橋とちがって、どこか1か所
ちよっとでも狂いがあれば、全体が台なしになるので設計にも施工にも萬全の用意が必要であった。まず橋をかける際は厚さ2寸、
巾8寸の板で橋の形のワクを作る。そしてそのワクに従ってたんねんに石をつんでゆく。最後の1石をハメ込んでワクをとり外す
のたが、この時橋がペシャンコになれば万事休す、棟梁は責任をとって腹を切るのが不文律になっていた。だから棟梁は自分の
力のすべてをかけて尚その上に神仏の加護を求めた」とあります。私はこの4月はじめ、坂梨校の浜本先生と橋を調べてみました。
川に下ると、約100個の石がみごとなアーチをかけています.下底の長さ6.4m、巾4.3m、中央部の高さ2.1m。石材は長いもので
約2m、短いのは半m程度で、材質はさして堅いとは思えません。しかし架設以来120年を経た今日も堅牢そのもので、すでに或る
風格さえ感じられます。改めて施工者卯助に畏敬の念をいだいたのでした。
私は以前からこの橋の名称について知りたかったので、この日は下町側の角の2つの大石を調べました。倒れているので転ばし
ながら4面を見たのでしたが、何らの手がかりもありませんでした。あるいは最初から名称をつけなかったのかもしれないと
思っています。私たち村人は、この立派な文化財―おそらく阿蘇谷に唯一の石橋―を末長く見守って行きたいものであります。
(付)種山石工の作としては、鹿児島に磯の長堤、防皮堤、鶴丸城の一部。東京では万世橋、江戸橋、白木橋、神田橋。
熊本では明五・明十の両橋。下益城に霊台橋。阿蘇では戸下橋、蓬莱橋等があります。
坂梨小学校
(『広報いちのみや』平成15年12月号より。執筆は嘉悦渉氏)
坂梨小学校沿革
坂梨小学校は、熊本県教育史(昭和6年)によると、明治8年(1875)設立と
なっていますが、坂梨小学校沿革誌には明治6年6月、字北駄原(坂梨手永会所跡地)に公立坂梨小学校として設立、発足して
います。
同11年、字平口(大黒屋裏)に校舎新築、隆成[隆盛か?谷博註]小学校と改称。同20年、字櫨(はぜ)の木の現在地に
校舎新築、移転。梨陽小学校と改称。同25年、坂梨小学校と改称し、設立時の校名にかえりました。
その後、校内諸施設の充実と拡張を図ってきましたが、平成2年7月2日、坂梨地区を襲った未曾有の大水害で大きな被害を受けました。
復旧工事も順調に終り、現在に至っています。
なお明治17年の記録によりますと、坂梨村古閑のうち、古閑小学校の校名が見えます。
坂梨小学校保存教科書
坂梨小学校には、明治4年から明治43年までの教科書が193冊保存されています。その保存状態は極めて良好で、県下でも明治期の
教科書をこれほど多数保存している学校はありません。
明治10年、西南戦争の戦場となり、その戦禍や度重なる災害、特に太平洋戦争終結時の混乱を超えて、よくぞ今日まで保存しえた
ものと、先人の教育に対する不屈の情熱と努力には頭のさがる思いです。
明治期の小学校教育の一端をうかがい知るに足る十分な資料として、誠に貴重な文化財ともいえます。
護法社
(『阿蘇郡誌』大正15年発行より抜粋。旧字は新字に改め、句読点を適宜付加した)
坂梨村にある。天正年間、大友氏阿蘇を襲ひ西巌殿寺を焼き、寺僧四散し殆んど廃寺となった。長善坊契雅法師も亦
遁れて馬場の大山寺に隠れた。万福院行蔵坊、其の跡を追ひて坂梨に来り。遂に遁れ難きを知り、今の行蔵落としと云ふ
懸崖より身を投じて死んだと。時に乙護法を負ひ居たので、時人此の仏体を茲に祭りたるものと云ふ。
疣石、箱石
(『阿蘇郡誌』大正15年発行より抜粋。旧字は新字に改め、句読点やルビを適宜付加した)
阿蘇・南郷谷には大明神の事蹟に因んだ種々な名称の石がある。そして其の総数が48あるので之を48石と呼んでゐる。
坂梨の滝室坂にある「疣(いぼ)石」、坂梨から野尻に通ずる処にある「箱石」、路が険しくて景行天皇が御車を還されたと云ふ車還坂
にある「庖丁石」、俵山にある「鎧(よろい)石」、白川にある「冑(かぶと)石」、阿蘇山上の「硯石」「鏡石」、尾ヶ石村の
「的石」、内牧町の「鼻ぐり石」、中通村の「行灯石」「腰掛石」などを始めとし、要石、蚕石、櫃石、下馬石、亀石、雉刀石
などが各所に散在してゐる。馬蹄石には大明神の乗馬蹄の跡と云ふのが鮮かに残つてゐる。それが農学校付近と、前に書いた
久木野宮の南方と、南郷谷から矢部に越す大矢山中の「駒還り」といつて大明神が此処から駒を還されたといふ処の三ヶ所に
ある。亀石は先年村民が之を割ろうとしたら、直と大雨が降り出したので止したそうだ。豈夫(まさか)亀の涙でもなかつたらう。而して
48石中最も名高いのは的石である。
阿蘇谷の七鼻八石
(『阿蘇郡誌』大正15年発行より抜粋。旧字は新字に改め、句読点やルビを適宜付加した)
七鼻 「妻子が鼻」制子が鼻ともいふ。内牧町の上にあり。「古城が鼻」古城村にあり。
「遠見が鼻」山田村の内にあり、大観峯と称す。「獅子が鼻」坂梨村にあり。「松が鼻」内牧町の上にあり。「尾が鼻」北坂梨馬場に
あり。「蹶落(けつらく)が鼻」中通村にあり。
八石 「的石」尾ヶ石村大字的石にあり。「境石」黒川村と色見村との境にあり。「瘤(こぶ)石」
坂梨滝室にあり。「箱石」坂梨村にあり。「鷲石」中通村にあり。「硯石」阿蘇山上にあり。「花ぐり石」内牧町にあり。「鏡石」
坊中本堂にありしが阿蘇山上に移す。
矢の島
(『阿蘇郡誌』大正15年発行より抜粋。句読点を適宜付加した)
坂梨村にある。太古大明神宮居を卜するに矢を放ち玉ひし所と云ふ。
日野村
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