調査経過
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阿蘇たにびと博物館は、阿蘇谷・南郷谷に生きる「谷人」たちの民俗と自然との 関わりを調べ、それを伝えていく博物館です。
aso tanibito assomusee is the museum which researches tanibito have lived in Aso region, Japan.

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進捗状況: 2003年10月23日現在 11%
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01.立野 02.下野 03.長野 04.河陽 05.河陰 06.久石 07.両併 08.白川 09.吉田 10.一関
11.中松 12.上色見 13.高森 14.色見 15.役犬原 16.西町 17.竹原 18.蔵原 19.黒川 20.乙姫
21.永草 22.赤水 23.無田 24.車帰 25.狩尾 26.跡ヶ瀬 27.的石 28.内牧 29.成川 30.三久保
31.西小園 32.西湯浦 33.湯浦 34.南宮原 35.小里 36.小池 37.小倉 38.山田 39.小野田 40.今町
41.黒流町 42.手野 43.三野 44.北坂梨 45.坂梨 46.宮地 47.中通

09.吉田
 今でこそ恋愛結婚も多いが、戦前戦後は結婚といえば7〜8割は親の決めた見合いだった。あとの2〜3割はムラのキモイリ ドン(肝煎殿)が持ってくる紹介か、子供の頃から許嫁(いいなずけ)がいるなどで、いずれにせよ自分で相手を決めることは まずなかった。相手も日取りも、何もかも昔の結婚は親がすべて決めるものだったから、結婚式の当日まで相手の顔をまと もに見たことがない者も勿論いた。許婚をおくのはどちらかというと名家とか上流の家庭で、4歳頃から決めて17〜18歳に なると結婚していた。また、肝煎殿というのは土地の実力者で、当時はたとえ村長であろうが警察署長であろうがこの人には 逆らえないほどだったが、そうした人の中で世話好きな人が適齢期の娘さんを紹介することもあった。適齢期は、当時は大体 18〜23歳くらいだったから今よりかなり早い。22歳を過ぎると縁遠くなると云って、親の方が焦っていた。そうして親が持っ てきた話に反対することはできなかったし、まして肝煎殿が持ってきた見合い話を断わるなどは到底ありえない時代だったの で(もしそんなことをしたらハンドガメをかぶせられる、つまり村八分にされたり、実生活に支障をきたしたりするだろう。 しかし肝煎殿も良かれと思った娘さんを連れてきているので、決して悪い話ではないのである)、一度結婚して離婚することは まずなかった。娘も嫁に行くときは二度と戻れないと覚悟していた。終戦後は、例えば青年団の中で自分の気に入った相手を 親や仲人さんに強く推して結婚する者も出てきたが、それでも決して二人だけで決めることはなく、必ず間に誰かを入れて 見合いの形をとっていた。そうした場合でも、結婚するまではお互い話をするでもなく、手をつなぐでもなく、つまりほとんど 何もしなかった。そういう時代だった。このように、よほど好きなら仲立さんを頼み倒さねばならなかったが、それでも昔は 家柄が違えば叶わぬ夢だった。かつて結婚で最も重視されたのが家柄で、容姿や性格などではなかったからである。これが 釣合わないと当時は結婚はまず無理だった。その無理を通そうとすれば、あとは勘当か夜逃げしかなかった。しかしあとから 考えれば、結婚にとってやはり家柄は大きなポイントだと思う。揉めるときにはそこが争点になることも少なくないからであ るが、そう考えると肝煎殿はやはり大した見識だったと思う。結婚する範囲としては、南郷の場合は谷内から嫁さんを貰う場 合が多かった。蘇陽や色見のような少し山間になると、昔は馬車だったので交通が大変だった。あちらから南郷に嫁に行くと なると、当時は今で云う町に嫁ぐような騒ぎだったようだ。結婚式の時期も、今は外国の影響もあってジューンブライドなど とも云うが、昔は6月に結婚するなどはまず絶対なく、ほとんどが3月頃に集中していた。
 結婚する聟と嫁を取り持つ仲人をこの辺りではナカダチ(仲立)サンとかナカダッツアンと云う。結婚話を持ってきた者が、 そのまま仲立になるのがほとんどである。肝煎殿が話を持ってきたときには、肝煎殿がそのまま仲立になる。仲立さんはまず 双方の家を訪れて両家に結婚の話が立つと、その挨拶と承諾のために何回も嫁の家に通う。これをヨメゴモライ(嫁御貰い) という。挨拶には少なくとも最低7回は通わねばならないとされていた。最初に軽く打診した後、2〜4回くらいで大体了承を 貰っても、さらにそのあと2〜3回は通ってお願いをせねばならないからである。これは、たとえどんなに娘を嫁にやりたいと 思っていても、娘側はすぐに返事をしてはならないとされていたからで、もしすぐにしたりすると、娘が傷物に見られたり、 軽々しい行為をする家だと見られてしまう。ただし、わざと何回も断わって、結果的に嫁を盗んでもらうような形をとるような 話は聞いたことはない。ともかく嫁側は何回かは話を断わらねばならないのが作法だったから「娘本人は良いと云っているが、 まだ親戚にも聞いてみないと」などと色々理由をつけて断わられて、仲立の仕事は最初からとても大変だった。それでよく 「仲立するより逆立ちせい」などと冗談で云われていた。仲立は、聟側に夫婦で2人、嫁側にも夫婦で2人立てられたから、 合計4人である。今でもこの辺りでは仲立を四人立てる家も多い。縁起も担いで、後家さんは仲立にはなれなかった。最初は 聟側の仲立しかいないのだが、何度も嫁の家に通ううちに、だんだん話が決まってきたら(4〜5回目くらいか)、嫁側にも 仲立が立てられる。嫁の家に通うのは夫婦のうちどちらか一方だが、どちらが通うかはまちまちで、女の方が話がしやすいので 奥さんが行くことが多かったようだが、奥さんが静かな人だと旦那さんが行ったりと云う具合で特に決まってはいなかった。 そうしていよいよ結婚の話が決まって最後の挨拶のときには、双方の仲立が四人全員揃ってお互い挨拶をする。これをクチガ タメ(口固め)と云う。スミイワイ(済祝)という所もある。この日は紋付き袴を来て訪れる。またこの日は、嫁側の親族も 全員集まって参列する。聟側は酒と魚(何の魚だったかは覚えていない)を持って行き、挨拶を交わしたあと口固めの杯を交わす。 そしてこの日に結納の日取りを決める。酒はスミダル(済樽)と云い、昭和50年頃は5升の日本酒を持って行っていた。
 両家の間で結婚の約束が承認されると、後日改めて聟側の仲立と聟の両親、それに聟の五人が嫁の家を訪れ、嫁側でも 兄弟やごく近い親戚などが待っていて、正式な結婚の約束を交わす。これをユイノウ(結納)という。結納はだいたい結婚式 の1週間〜10日前ほどのダイアン(大安)の日が選ばれた。聟側は、今は例えば10万円ならば10万円と現金を届けておくが、 戦後しばらくまではその日の酒や魚などの料理の品を嫁側に届け、それに色々と手土産なども持って行っていた。料理の品は 魚に竹輪、蒲鉾、揚豆腐など、この日のために市場に頼んでおき、事前に嫁宅に届けてもらう。なんにせよ、出費が嫁側の負担 にならないように聟側がすべて用意していた。結納の出費の割合は、聟側と嫁側で10対0である。結納だけでなく、結婚式も すべて聟側が出していたように思う。嫁の家からお金を貰うことはなかったし、またそれが当然と思っていた。折り合いして 出すようになったのは、結婚式を式場でやるようになってからではないだろうか。魚はメオトダイといって鯛を二尾用意した。 そのうち1匹はその日の料理に使うが、もう1匹は嫁側から必ず返されていたので、聟側はそれを持って帰っていた。それも もういつの頃からか持って帰らなくなった。嫁の家に持って行く手土産品は決まっていて、嫁本人には結婚式のときに着る着物を、 嫁の父には扇子を1本、嫁の母には風呂敷や反物などを贈った。反物は1反ほどだろうか、もし羽織分まで入れるなら2反ほど贈っ ていた。これらの贈物をチャオサイという(意味はよく分からない)。この日の格好は、紋付き袴である。ノシヒキ(熨斗引き) といって、お祝いの品物や目録を嫁の家の床の間に並べる作法や、「末永く・・・」などの口上もあったが、具体的にはほとんど 忘れてしまった。この日に、嫁側からは嫁入り道具を聟の家に運び込むので、聟側はムラの若い衆を四〜五人選んで一緒に嫁の 家まで連れて行った。嫁入り道具は箪笥なので、彼らはタンスハコビ(箪笥運び)と呼ばれた。箪笥の中には、嫁の着物や帯な ども一緒に入れられる。着物は普段着だが、後でこの箪笥は聟の家で披露されるので(後述)、あまり貧相な物は入れられな かった。また、そのため箪笥もなるべく良いものを奮発していた。箪笥の善し悪しは、材質もさることながら、金具によっても 決まっていた。娘が嫁に行くとなると、指物大工(障子や箪笥を作る専門の大工)に注文を出して作ってもらうが、大工はその 家の経済状況などをみて、適当な金具を選んでくれていた。お金持ちの家なら、高価な金具がつくといった具合である。指物大 工は南郷谷にもいたし、市内に注文を出す家もあった。箪笥の材料は桐が最高とされていたので、何処の家の庭にも桐もしくは ケヤキが植えられていた。ただし娘の親の代が植えたものでは間に合わないので、その上の祖父以上の代が植えたものを使う。 娘が嫁に行くとなるとその桐を伐って箪笥を作り、また庭に新しい桐を植えるのである。桐は箪笥のほかにも下駄にも良いと されていたので重宝した。桐下駄は軽くて最高級品であるし、下駄屋ならこの近所にも大勢いたのでよく頼んで作ってもらって いた。箪笥を買うお金は嫁側が出すが、これは聟側が持ってきたユイノウキン(結納金)で購っていた。勤め人なら給料の2ヶ月 分ほどだったろうか、相場は30〜50円ほどだったか、とにかくお金で支払っていたと思う。こうして結納や結婚式にかかる費用 はたいてい聟側が出していた。婚約指輪が入ってきたのは昭和四〇年代からだったろうか。結納金の額は農家か商売人かなど家に もよって違うが、田舎から田舎へ嫁ぐ場合はやはり周りの目もあって金額は張っていたように思う。結納の日、聟側が嫁の家まで やって来ると、簡単な酒宴の準備がされていて歓待を受けた。箪笥運びの若者たちも一緒にごちそうにあずかる。彼らはいよいよ 嫁の家から箪笥を運び出すときに、顔全体や鼻筋に1本白粉を塗られて、笹につけた水を上から降りかけられた。振りかける人は 誰だったか忘れてしまったが、近所の手伝いの人ではなかったろうか。白粉も近所の人たちが塗っていた。水はどこの水でもよい。 笹は嫁の家が事前に用意していた。たまにふざけて笹どころかバケツで水をかけられる者もいたが、これは別に腹を立てるほどの 悪戯ではなく、笑って過ごしていたように思う。帰るときには箪笥運びたちもお酒を呑んでふらふらだし、箪笥もかなり重いので、 箪笥運びにはあらかじめ馬車で向かっていた。馬車は、例えば松ノ木の緒方末義さんのように馬車引きさんが何人かおられて、 普段は山林の馬車引きなのだが、こういうときにも頼まれて馬車を出していた。彼らはこうした仕事の帰りに決まって酒屋で1杯 ひっかけていて、店の前に馬が止まっていたのですぐ分かった。馬も心得たもので、酒屋の前で自分でぴたっと止まったという。 そうして酔っ払った帰りはまた馬が自分で家まで連れて帰ってくれていた。さて、箪笥運びはかなりきつい肉体労働なのだが、 嫁の里であちらの若い娘さんたちにも会えるとあって、みな喜んで志願していた。また向こうの娘さんたちも、そうした若い衆た ちをひと目見に来ていたので、若者たちも「(白粉を)奇麗に塗ってくれ」などと注文を出していた。そういう出会いの場その ものが一つの楽しみだった。聟の家に運ばれた箪笥は、後日聟の近所に案内が回ってきて 一般に披露された。この案内をタンスミ(箪笥見)の案内と云う。箪笥は家の座敷など、外からよく見える場所に置かれた。 そのため前述の通り、あまり変なものは入れられなかった。
 結婚式はだいたい昼過ぎ頃から始められるので、昼頃に聟側から嫁の家まで嫁を迎えに行く。これをヨメゴムカエ(嫁御迎え) とかヨメサンムカエとか云う。例えば式が午後2時からならば、だいたい12時半頃には迎えに出掛けていた。出掛けるのは聟と、 聟の仲立夫婦と、聟の友人が1人の合計4人である。この友人はムコワキ(聟脇)と呼ばれ、この日のために仲の良い友人が1人選 ばれた。勿論、男である。このときの格好は、紋付き袴である。嫁の家に着くと仲立が「本日はお日柄も良く…」などと口上を 述べる。そして酒宴の準備が整えられているので、そのまましばらくそこで酒盛りをする。嫁側の親戚たちも皆集まっているので 一緒に飲み食いする。このとき、たとえ式の時間が近づいても、嫁側からは決してそろそろ出発しては等とは云い出さない。これ は貰いに行った聟側の男の仲立の仕事である。嫁側は仲々出そうとしないので、聟側の方からまだですかと意識して急がせねば ならない。こういうときに気を遣って黙っていては逆に駄目なのである。そうしてようやく出発となると、嫁は家の仏壇にお参り して、両親の前に座って挨拶をしてから、家を出る。出るときに1つ作法があって、玄関を後ろ向きに出る。つまり普段とは逆で、 家を見ながら出るのである。これはもう二度と戻って来ないようにという意味だと思う。またこのとき、杯を地面に叩き割った ような記憶があるが、果たして誰がどの杯を割ったかは思い出せない。家を出ると、近所の人などが大勢ヨメゴミ(嫁御見)に 集まってきているので、その間を通り抜けていく。聟の家まで1キロほどならばそのまま歩いていくが、数里あるような遠い家な らば牛や馬に乗って行く。馬車を使う者もいたが、馬車はかなり揺れて髪や着物が乱れるので使わないという者もいた。嫁の頭は シマダ(島田髷)で、昔は今のようにカツラでなく地毛を結っていたので、式の1週間ほどに髪結いさんの所に行ってならして もらっていた。これをナラシガミと云う。例えば高森に髪結いの親戚がいる人などは、そこにならしてもらいに行っていた。 嫁の家から聟の家へと向かう行列の先頭は、提灯を持って歩く。旧家のような家の提灯には家紋が入っていた。道中で、長持唄や 田植唄などの祝い唄が唄われた。嫁の親戚たちは同行せず、あとから別に来ていた。嫁が聟の家に着くまでにどこかに立ち寄った り何かしたりするような話は新町ではあまり聞かないしよく分からない。組内にトラックを持っている人がいて、嫁もそれに 乗って一気に聟の家まで行ってしまった者もいる。トラックは昭和20年代前半にはすでに出てきていたが、当時としてはかなり 楽なことだった。現在旧道と呼んでいる国道325号線は、かつては新道と呼ばれていたが、これが全面舗装になったのはたしか 昭和40〜42年の頃だったと思う。ちなみに、当時女が自転車に乗ることもなかった。「娘ん子は自転車に乗るもんじゃない」と 怒られていた。あの時代、自転車に乗る女性は産婆さんかお医者さんだけだった。
 今でもそう呼ぶこともあるが、昔は結婚式のことはシュウギ(祝儀)と呼んでいた。葬儀などを指す不祝儀という言葉が一般に あるが、こちらはあまり使われない。かつて結婚式はすべて自宅で開かれていた。今のように結婚式場で行なわれるようになった のは、昭和40年代後半〜50年代にかけてだろう。最初はそうした式場での結婚式はデアイシュウギ(出会い祝儀)と呼ばれた。 双方が家を出て外で出会うからである。それが段々普通になってきて、ケッコンシキという呼び名が定着してきた。同時に出席人 数も100人を突破するような大きなものになってきて、それだけ予算も膨らんできた。この頃阿蘇でよく使われた式場としては、 高森町の西門(にしかど)屋、長陽村の碧水楼、阿蘇町の白雲山荘などがあった。また、家でしていた時代と式場でするように なった時代の間に、公民館でしていた時代もあった。新町では、今の白水郵便局がある所に中央公民館があってそこでしていた。 その裏の今道場がある所は披露宴会場だった。公民館の中には、そこで結婚した人たちの写真がずらりと飾られていた。はずされ ていた物もあって、それは離婚した人たちだそうだから、昭和40年代にはすでに離婚する者も出てきていたことが分かる。それ 以前は、前述の通り、離婚はあまり聞かれなかった。自宅で結婚式をしていた時代は、自宅のザシキ(座敷)とそれに続くオモ テの部屋を開け広げて式場として使っていた。勿論その2部屋だけでなく、奥のツボネや台所など、結局家中を使うことになるの だが、メイン会場はその2部屋だった。普段その部屋に置いてある箪笥なども皆ツボネの奥に並べて片づけていた。結婚式の進行に 欠かせないものはウタイ(謡い)である。高砂の唄を唄うのであるが、これが唄える人が結婚式の総指揮にあたった。仲立が唄え ればそのままウタイになるし、もし上手く唄えなければ他に唄える人を聟側が見つけて雇っていた。これを唄う人をウタイニン (謡人)とも云うが、この人がツボネの部屋で待っているので、嫁はまず家の玄関からニワ(土間のこと)に入って、聟と一緒に オモテからツボネに進んでそこで謡人に挨拶する。玄関を入るときは特別な儀礼はない。聟の家の神棚や仏壇に参ることもない。 ツボネまで来たらそこで約20〜30分ほど、仲立が挨拶したり、三三九度の杯を交わしたり、高砂も2〜3番唄ったりして結婚式を 行なう。三三九度のお酒を注ぐのは4〜5歳の男の子と女の子の2人である。これも必ず両親がいる家の子供であり、男の子が嫁に、 女の子が聟にそれぞれ注いでいた。この子たちはオチョウメチョウ(雄蝶雌蝶)と呼ばれている。聟の親が、近所や親戚の子から 適宜選んでいた。盃には紙を折ったものがつけられていた。この紙はお店で売られていたものがあったので、それをそのまま買って つけていた。そうしている間に、座敷の披露宴会場にお客さんたちが徐々に集まって来て、着席して式の終わりを待つ。無事式が 終わると、聟と嫁が座敷に出てきて皆に挨拶して披露宴が始まる。家にもよるが、嫁は表(オモテの部屋ではなく外庭のこと)側、 つまり縁側寄りに座って、聟が内側に座っていたように思う。聟は、最初の挨拶のときまでは臨席するが、それが終わったらすぐ 着替えて、お酒の燗つけなどの手伝いに走る。嫁は来客たちにお酒やお茶を注いで廻る。料理はリョウリシ(料理師)がやって 来て2〜3日前から準備に入っている。料理師は、地区に料理が得意な人がいたりして、そういう人に頼んでいた。オカシラを用意 するのに、大根で鶴亀とかボタンの花を作ったりする細工が必要で、時間が掛かるからである。なかでも鯛あぶりが大変な仕事で、 来客全員の分の鯛を串に刺して火鉢に炭をおこして焼くのは大変だった。例えば約100人ほどの結婚式として、ハナダイ(花台)に 載せた大きな尾頭付きを3鉢と、一人一人に小鯛を1匹ずつつけていた。鯛のヒレも立って広がるように、大根を刺して形を整えた りして工夫していた。結婚式に参加する人数は、家にもよるが、一晩で普通50〜60人ほど、多い家で70〜80人は来ていた。それを 数晩である。これほどの集まりは二度とできるようなものではなく大変だったので、やはり当時は離婚はほとんどなかったように 思う。それからお祝いの紅白餅も出ていた。搗くのは前日くらいだろうか。特に農家では何かあるごとに必ず餅を搗くものである。 また結婚式の準備のために近所の人たち(つまり組内の人たち)も皆手伝いに来ていた。式が終わって披露宴が始まると、聟は すぐに着替えて、庭でお酒の燗をつけたりして使い走りで働かねばならなかった。嫁の方はそのまま着物で大勢のお客に酒を注いで 挨拶に回らねばならないのでこれまた大変だった。今では結婚式といっても数時間で終わるが、昔は一度始まると際限がなく、 夜中の3時4時というのも当たり前だった。それでもうこの辺でお開きにしましょうという意味のお茶が回ってくる。このお茶を イネヂャ(去茶)という。これを配るのも嫁の仕事で、このときに結納で貰ったチャオサイの着物を着る。これでようやく結婚式は 終わるのだが、それまで嫁はずっと髪も島田(髷)のままで大変だった。しかも昔の結婚式は一日では終わらず、明くる日はお世話に なった組内の人たちを、またその次の日には親しい友人たちを招いて、だいたい3日間くらいは続けていた。しかも毎晩1時、2時まで である。当時はほかに大した娯楽もなかったので、そういう意味もあったのだろう。だから結婚式は農家の忙しいときには決して 行なわれなかった。だいたい稲刈りが終わって翌年の仕事が始まるまで、つまり11〜3月のうちに必ず行なわれるのだが、気候的にも 雪が解ける春先の3月頃が一番多かったように思う。
 結婚式が終わっての3日目をミツメといい、この日朝から嫁とシュウトオカアサン(姑母)が一緒に近所の組内の家々に結婚の挨拶 に回る。このとき嫁は頭をまた島田に結っていて、このときもまたお茶を配って回る。それが終わったら、そのまま2人とそれに聟側 の仲立夫婦と4人で嫁の実家まで行って挨拶する。向こうでは、簡単な料理が用意してあるので、それをごちそうになってくる。この ときに決まった料理などはなかったように思う。だいたいお昼過ぎくらいに向こうに着いて、その日の夕方くらいには戻って来ていた。 また年の暮れ頃、12月30日か31日頃に、ヨメゴブリ(嫁御鰤)といって、鰤を1匹嫁さんの実家に持って行って挨拶した。ただし、結 婚して最初の正月だけという家が多かったろうと思う。鰤は熊本市内の市場からとっていて、早くから注文していた。当時は冷蔵庫も なかったので、買って来てから鰤に塩をすり込み、庭先に吊るしていた。時季的に寒いので何とかなるが、なるべく腐りにいように との工夫だった。だからとても塩辛かったのを覚えている。また、刺身にするような魚なら、井戸の中によく吊るしていた。当時は 井戸が冷蔵庫代わりだった。仲立との付き合いは、結婚してからもずっと続いた。子どもが生まれて、3歳のヒモトキ(紐解)くらい までは、祝いの席に仲立さんも呼んで挨拶していた。こういう時期は子どもだけでなく夫婦にとっても大切だったので、仲立さんを 呼ぶことも意味があったのだろうと思う。
●話者: 興梠二雄さん(昭和3年生、新町)、万代子さん(昭和8年生、白水村松ノ木生)ご夫妻
●調査日: 

11.中松
 ソノエさんは、明治40年長陽村河陽東下田の生まれ。25歳の頃の3月27日に白水村中松松ノ木の緒方末義さんのところに お嫁に来た。当時は見合い結婚は少なく、相手は自分で見つけてきたという。末義さんのことは、すぐ隣の地区同士であるし、 以前から田圃で見かけたりしていたので知ってはいた。
 ナカダッツァン(仲立)は聟側に1人、嫁側に1人つき、どちらも男性だった。
 結婚式の前の日に、タンスモチ(箪笥持ち)といって嫁の家から箪笥や布団、着物や足袋、蛇の目傘、下駄といった嫁入道具を 運び出す男たちが4〜6人行っていた。この前日の使いをタルツカイ(樽遣い)という。荷物を2人1組でかついで運ぶので、もし2組 なら4人、3組なら6人行く。箪笥は大工さんに作ってもらったり買ったりして、嫁側の家で用意しておく。着物は結婚式のときに 嫁さんが着るもので、チャオシャイといった。蛇の目傘は和紙でできていて、蛇の目の紋が入っていた。聟の家からは、聟と両親、 仲立、箪笥持ちたちが一緒に向かう。その日に向こうで食べたり飲んだりするので、その酒や魚や、嫁の父母への土産などを持って 行った。お金はなく、品物だけだった。魚は鯛で、その日に集まる人数分持って行った。嫁の家でも、兄弟や親類などが集まっていた。 当時は結納というものはなく、この樽使いが今の結納にあたるものだった。箪笥持ちたちはみな顔に白粉を塗られていた。白粉は カミイー(髪結)さんが塗った。髪結いさんはヨメゴサンコシラエ(つまり髪結いや着付け)のために、近所の女性を1人雇っていた。 ほかにもいろいろ準備が大変なので、近所の人たち、オトコシ(男衆)たちに結婚式の前の日からカセ(加勢)してもらわなければ ならなかった。例えば結婚式で使うお茶碗を寄せたり、道具を揃えたりなどである。式当日の料理はリョウリニン(料理人)を雇って いた。ムラに料理の上手な人がいたので、その人に頼んでいた(商売でしている人ではなかった)。式で食べる鯛は、何十人分も串に さして木炭であぶって焼いていた。樽使いの日に嫁さんの家で食べて、また翌日にも聟の家で焼いて食べるので焼くのは大変だったが、 当時としてはとても贅沢なことだった。
 結婚式の当日は、聟たちが嫁の家まで迎えに行く。これをヨメサンムカエ(嫁様迎え)という。聟さん、仲立さん、聟の父、それ からムコワキ(聟脇)といって聟の男の友人が1人、それに誰か婦人が1人の合計5人ほどで行っていたように思う。迎えに行くのは 昼過ぎ頃、それからお客さんして(お接待があるのでそれを頂いて)、夕方頃に家を出てくる(暗くはなかった)。出てくるときに 何か特別なことがあったかどうかはよく覚えていない。嫁側の一行は、嫁、仲立、嫁の父、嫁の親戚など5〜6人だったと思う。嫁の 家から聟の家まで歩いて来た。聟だけはみんなより一足先に帰った。帰るとき、「聟には水をかけんといかん」と言われていて、 普通の道を歩いて帰るとみんなから水をかけられるので、聟は事前に人知れぬ道を探しておいて、そこをこっそり通って帰っていた。 そういう聟に対するいたずらのようなものは、大らかに許されていた。一行が聟の家に近づいてくると、家の周りに近所の人やら若い 者たちがたくさん嫁さんを見に来ていた。これをヨメゴサンミ(嫁御様見)という。彼らは家の中には上らず、縁側の周りとか、外 から見える所からわいわい見ていた。嫁は戸口(玄関)からではなく、オエン(御縁)から上って、それからザシキ(座敷)に座った (聟はもう先に帰っていたので待っていた)。
 両者が揃って、メオトザカズキ(夫婦盃)をした。男の子と女の子がそれぞれ聟と嫁にお酒をついだ(この子たちを何と呼ぶかは 覚えていない)。また、このときに唄をうたう男の人が1人いた。誰かは覚えていないが、唄の上手い近所の人を雇っていたように 思う。それが終わってからは宴会となり、聟も嫁もひとしきりお客さんたちをもてなした。嫁はその間にも何度か着物を着替えていた。 何回着替えるかは人にもよるが、着物をたくさん持っている人は2回も3回も着替えていた。夜中の12時とか1時になって、ようやく 宴会もお開きとなると、嫁は最後にチャオシャイの着物に着替えて、お客さんたちにお茶をついで廻った(このお茶を何というかは 覚えていない)。
 結婚式のアケンバン(明けの晩、つまり2日目の夜)はヨメゴダル(嫁御樽)といって、親戚縁者ではなく、今度は聟の友達たち がいっぱい来てお祝いしていた。
 式の日から3日目をミツメといって嫁の実家へ挨拶に行く。これをヨメゴフケリといった。多くが3日目に行くのでミツメと言うが、 例えば5日目に行くときはイツカメと言っていた。嫁と嫁の義母、それから仲立さん辺りが一緒になって、まず近所に挨拶に廻り、 それから嫁の実家に挨拶に行った。時間は特に決まっておらず、いつでもよかった。嫁の頭は島田(髷)に結って、着物を着て行った。 着物はヨメサンギモン(嫁様着物)などと呼ばれる、普段とは少し違う着物で行った(チャオシャイを着たかどうかは曖昧)。
●話者 緒方ソノエさん(明治40年生、松ノ木、長陽村東下田出身)
●調査日: 2003年5月21日

13.高森
 通婚圏 通常・通婚圏は一つの村落を基準とし郡の範囲に含まれていた。現在では社会的状況から遠方婚も多くなってきているが、 戦前までは村落内ないしは隣接した村落との通婚が圧倒的に多く、従兄妹夫婦といった近親婚もかなりの数に昇った。
 恋愛・見合い 恋愛に対する観念は時代、階層などによって大きなかけへだてが見られる。太平洋戦争前までは恋愛を不道徳なものと する考えが広く、婚姻の手続きをすべて親まかせにしようとする風潮が強かった。しかし一般庶民の社会では配偶者選択は当事者間の 自主性に負うことが多く、村祭りや田植え、盆踊り、刈り干し伐り、ヨバイ等の機会に恋愛が成立した。恋愛関係はナジミ・ヒキアイ と呼ぶ。見合い形式をとるのはそのほとんどが村外婚の場合で、親の選択によって相手が決められ、本人は承諾の形をとるというのが 親権の強い時代の風潮であった。
 結婚年齢 一般に早婚で男子は20歳、女子は16歳ぐらいから結婚した。男の25歳、女の19歳は厄年で結婚を避ける風があった。相性 については、「1つ年上の女房は倉を建てる」「1つ年上の女房は金の草鞋をはいても探せ」と言うが、実際には1〜2歳年下の娘を嫁に もらうことが多い。
 嫁盗み 娘の親が2人の結婚に反対であるときには最後の手段として嫁盗みがなされた。嫁盗みには男側の仲間が協力し、盗み終え ると仲間が嫁の家に赴き娘を盗んだことを報告し、親に両人の意思を伝え結婚に同意するように説得したが、あくまでも同意が得られ ない場合、ツッパシリ、カケオチにおよんだ。
 仲人 恋愛婚の場合、仲人はタノマレナカダチで形式的な役割しか果たさないが、見合い婚では見合いから嫁入り、その後の諸儀礼 や人間関係が持続する。また、実際に縁談を勧め婚姻の約束を結びつけるまでのモトオコシが、家柄・年齢その他の点で軽すぎる場合 には、祝言の正席に座る仲人を別に依頼することもある。仲人はナカダチ・ナコウド・ナカドリなどの名称があり、双方から1組ずつ の夫婦を立てるが、聟方の仲人が中心になって事を進める。仲人には生涯義理を果たすものといい、盆・正月には贈りものをする。
 スミ祝い 縁組が成立するとスミイワイ、スミダルがなされる。チャイレの名称も聞かれる。聟方の仲人が酒・肴を携えて聟方を 訪れ、ここで盃事をなすことによって婚約が成立する。
 チャムコイリ 嫁入り仕度が長びいたり、近親に不幸があったり、年廻りが悪いなどの理由ですみ祝いの日から祝言の日まで長期間 にわたる場合には、チャムコイリをする。聟・両親・おじ・仲人らが酒・肴・茶を持って嫁の家へ行く。以前は泊まることもあったが 現在では1日で帰るのが普通となっている。チャムコイリが済めば双方の家に自由に出入りができる。
 タルツカイ タルイレとも呼び聟方から嫁方へチャオサエ・チャノモンを贈る。近年では結納金で済ますことが多いが、昔は嫁が 祝儀に着る着物・帯・下駄・足袋・傘、その両親・兄弟・祖父母・おじ・おばへの土産物となる反物・下駄・末広・足袋などと祝儀 当日嫁方の参列者の人数分だけの酒・肴・米・茶を式の前日に送りこんだ。祝儀の費用はいっさい聟方持ちであったが、近年において は4分6分というのが普通である。
 道具送り 嫁入道具は嫁入の前日あるいは当日に聟方に運ばれる。聟方から人足を出す場合が多い。時代が下るにつれて、嫁入道具 も豪華になったが、古くは箪笥・針箱・鏡・タライなどの品をタンスモチが運んだ。タンスモチは顔中に鍋墨を塗って道具を運ぶので あったが、聟方に荷を運び入れた後、鍋墨を塗る風習もあった。役を果たすと、タンスモチは酒のもてなしを受けた。
 聟入り 婚礼当日、嫁方でも親類知人が集まり、嫁の門出を祝う宴が張られるが、この席に聟と聟方の仲人、ムコワキも出席した。 聟はこの席で嫁の親と親子盃を交わし、盃事が済むと速やかに退出した。長居をすると村人などから水をかけられるからである。色見、 野尻などでは笹水祝いと称して盃事が済むと嫁の仲人や村人が重箱に汲んだ水を笹竹につけて聟に降りかける真似をした。
 聟いじめ 聟入りの際に、村の若者や村人から種々の悪戯が聟に対して加えられた。草部・野尻・高森などでは聟の肝だめしもあり、 聟の膳に生きた雀や蛙を入れた吸い物椀やダランホ・大根の箸を置き、聟が雀や蛙を飛び出させたり、膳の裏側に付けた本物の箸を 見つけられなかったりすると村人たちから笑いものにされたという。聟はこうして披露宴を一足先に引き上げ、家に戻り、まもなく 嫁が出立することを予告し嫁迎えの準備に取りかかる。この帰り道の途中でも村人が待ち伏せをして不意に水をかけるので、聟は村人 にさとられない様に隠れながら家に戻った。
 花嫁行列 花嫁は別れの挨拶を済ませると、玄関から出立し、徒歩で聟方まで行った。遠方婚の場合は馬に乗って嫁入りした。髪を 島田に結い綿帽子をかぶり、模様染めの着物を着て盛装した嫁にはヨメワキ、ヨメマギラカシと呼ぶ同年輩の娘が付添いそのほか嫁の 父・親類・仲人等が同行して聟の家へ向かう。嫁にはお手引き婆さんと呼ぶ嫁方の仲人の妻が常に付き添い、花嫁の手を引いて先導す る。遠方婚の場合には聟方近くに中宿が設けられ長い道中の疲れを休めたり、花嫁の衣装を整えたりした。村人たちは通りに出て花嫁 行列を見物したが若者たちが行列を妨害することも少なくはなく花嫁に水や泥をかけたり、落とし穴を作ったりしたが、多くは村外婚 の場合で村の娘をよそ者に奪われることに対しての腹いせであったらしい。嫁入りの日、雨が降ると福が降り込むといって喜ばれる。
 嫁迎え 嫁入りは一の暮れ(日暮れ時)頃になされるのが通例であるが、昼間でも嫁迎えの一行は提灯をともし、酒・肴・莚などを 携え、中途まで花嫁行列を迎えに行った。双方が出会うと嫁の受け渡しが行なわれる。この儀式の例を下色見にとると、聟方から三宝 に乗せた鰹節のけずったものと酒を嫁に勧め、嫁は酒を1口飲み、鰹節は懐紙に包んで胸元に入れた。
 入家 花嫁は婚家に到着すると普通は玄関から入るが、野尻のように座敷の縁からオテヒキに手を引かれて入家する習わしの所も ある。
 コンコンサカズキ 三三九度の盃はコンコンサカズキと呼ばれ、ツボネなどの奥まった部屋において交わされた。雄蝶・雌蝶の少年 少女が酌をする。この少年少女は両親を有するものとしている。夫婦盃が済むと親子盃・兄弟盃をする。野尻では盃事の前にオテツキ ノ餅といって丸餅の入った吸い物を嫁が食べる所もある。
 披露宴 式が済むと、座敷での披露宴に移る。上座に仲人、嫁の父が坐る。床柱の前に坐るところから花嫁の父をトコバシラカライ という地域もみられる。昔は聟は膳につかない所も多かったようである。下座には組内の人々が坐った。膳が出て冷酒がまわされ、 その後はかん酒になり、仲人や村人から祝いの謡や歌が出て賑わった。座の中央にソワダイ・シマダイを据える所も各地域にみられた。 ソワダイは鯛の生け作りや菓子・餅・野菜などで鶴・亀・松翁と媼などを作って台の上に乗せた大きな飾り物のことである。宴の最後 に、花嫁は聟方から贈られた着物を着て、一同にお茶を汲む。イネジャ、ヨメゴチャの名称がある。
 嫁フケリ 祝儀後2日目に嫁は姑につきそわれて嫁ふけりをする。嫁ふけりの範囲は組内あるいは小部落内で、茶袋を一軒一軒配って 挨拶をして歩く。
 里帰り サンチガエリ、サトアルキ、ミツメといって、祝儀の3日後に嫁は聟と一緒に里帰りする。仲人(女)、母親が伴うことも ある。土産物に酒1升・肴などを持って行く。当日は、泊まると里心がつくといって逗留はしない。このほかの里帰りは正月の正月歩 き(初正月にはシュウトンカガミと呼ぶ大きな鏡餅1重ねや歳暮には頭に縄のはち巻きを巻き、口にツルノハを1枚くわえさせた鰤を 届けた。シュウトンカガミの1個は帰りに返される)、三月節供(みやげに菱餅)、五月節供(みやげに粽)、盆(みやげに素麺)など が定例となっている。
 カネツケ 50〜60年前までは結婚をすると歯を黒く染めていた。高森では婚約すると大安の日を選んで母親や友人にカネツケの手 伝いを頼んで行なっていた。式後に染める人もあった。
●出典 森川真理子「人の一生」(『高森町史』昭和五四年)より

28.内牧
 仲人 「ナカダチ」と言う。仲人は、「ナカダチするより逆立ちせよ」と言われる程に、苦労も多い役目である。貰う方の親が、 まず適当と思われる人を選び、酒1升を持参しお願いに行く。仲人は、先方(嫁方)の仲人をお願いして両仲人揃って申し入れをする。 仲人は、夫方、娘方の双方から立てるのが普通である(現在は、1人仲人が多い)。正式な申し込みをする前に、「シタヅクリ」 「クチギキ」「シタソソクリ」といった非公式の話し合いが行なわれる。申し込みを受けた娘方の親も、1度で承諾をする事は少ない。 最低2〜3度は、足を運ばせるのが普通であった。
 済樽 何度か嫁方と話し合って、承諾の返事を得ると仲人は「スミ樽」と称し、酒肴を整えてお礼をする。この時、承諾の前に 酒肴を準備して、家に持ち上げて置くと大変嫌われ承諾が得られぬようになるので、持参して来ていてもお酒を買いに行った様子、 肴を買いに行った様子で少し遅れて出すとか、電話で注文持参した様な方法を取っていた。それが、先方に対する礼儀であった。
 親の礼 済樽から数日後、良き日を選び聟方の両親、親族の代表者が酒肴を整え、赤白の餅と赤飯を重箱2段に詰めて、仲人と 嫁方に行く。最近は、結納、親の礼、礼聟入りを同日に終了する事が多い。
 礼聟入り 挙式まで何ヶ月も期間がある場合は、礼聟入りをする。これが済むと、娘の所に通って良い事になっている。この儀式 をしておく事は、両家に不幸があったり、両家の親族にお祝いや不幸があった場合、行き来が出来る様にと、「道」をあけておくと 言われていた。
 夜打ち酒 若もん酒とも言う。親の礼、又は、礼聟入りの日、嫁方の青年団に夜打酒と言って、酒2升に肴を出す風習があった。 これを出して挨拶しないと、嫁方の戸口を夜中に叩いたりして青年がいたずらをする。又、この風習は、嫁に行く娘に他から間男が 来ても青年が追っ払う役目もしていた。地域の青年が、嫁に行く娘の警護の意味でもあった。
 樽入れ 普通樽入れは、結婚式の前の日に行われていた。結納の品は、時代や家格によって異なるが、一般には帯(男の場合は袴)、 末広、お茶、角樽、肴(芽出鯛)、傘、履物、反物等で、これに子生婦(昆布)、鰹節、友志良賀、寿留女など目出度い品が加えら れていた。現在は、結納一式と結納料として金銭に変わってきた。この日、聟方が嫁方に行って荷物を引き取る。これを「タンス トリ」と言う。聟方の近隣の若者達が、雇われて行く。嫁方で祝酒を振舞って貰い、顔に白粉のお祝いをして、嫁方の家を出る前 には「ワラジ酒」と言って湯のみ1杯の酒を酒を"ぐい"と飲み干し威勢を付け。「嫁御タンス」と大声で連呼しながら担いで帰る (今は、自動車で)。嫁の荷物も、タンス、タライ、布団、座布団、鏡台位であった。他の村との縁組の場合には、馬車などで運 んでいた。挙式前は、両家ともふすま、障子の張替、畳替等を行った。今は、自動車、冷蔵庫、洗濯機、食器乾燥機、掃除機、 レンジ等も持参する。
 髪結 祝儀の当日髪結(美容師)に来て貰い、高島田に結い、花嫁衣裳(留袖、裾模様、振袖、時には内掛け)に綿帽子を被る。
 出立ち 嫁は、家を出る時には「デタチ」の膳に付き、仏壇に拝し家族にお礼の挨拶をしてから出発する。軒先を嫁が離れる時に、 洗米を撒いていた。
 嫁ふけり 祝儀の日にするが、以前は祝儀の翌日というのが普通であった。聟の母親が、隣近所に嫁を紹介して歩く。これを 「嫁ふけり」と言う。出会い祝儀の為最近ではないが、女客だけを呼んだ。お茶入れ祝いがある。
 三つ目 結婚式の3日目を「ミツメ」「ハツアルキ」と言い、夫婦と聟方の両親とが揃って嫁の実家に行く。嫁に行った後は、 月初めの1日を「ツイタチあるき」、月の15日を「十五日あるき」と言って、実家に夫婦で行っていた。又、節供や農耕祭事の 時は、「嫁あるき」と言って実家に帰っていた。
 初歳暮 初めての年の暮には、鏡餅(1重1斗2升)、ぶり、酒樽を持参し嫁の実家に夫婦連れで挨拶に行く。この歳暮餅は、 年々小さくなるが親が存命中は続けられる。最近では、糯米を持参する所もある。
 初正月 この時は、夫婦揃って行く。以前は、両親も挨拶に行っていた。この時、お歳暮にいただいた「ぶり」を料理して お客様に出す。
 初御田植 嫁に来て最初の御田植祭には、「オンダ着物」と言って夏着物を聟方の親が作ってあり、これを来て宮参りをする 地区もある。「おんだよこい」と言って、休む事になっている。
●出典: 内牧に関すると思われる不明資料より(史料阿蘇2の加筆修正物と思われる。湯浅陸雄氏より寄贈)

33.湯浦
 結婚式の夜「うたい」が終ると式場兼披露宴会場になっているその家の戸袋を棒で叩いて祝福した。時には手荒く戸袋を叩き 破るという事もあり、他郷から来た花嫁は非常に驚いた。主に近隣の青年が叩き役で、「戸打ち酒」と称して2〜3升ぐらいの祝い 酒がふるまわれた。
●出典: 高本隆綱『阿蘇湯浦平成風土記』平成14年