尾ヶ石
(常設展図録)
date about Ogaishi village, Aso.
this page's last update: Oct/29/2005
阿蘇たにびと博物館は、阿蘇全体を博物館とし、そこに生きる谷人たちの
暮らしを“展示”して案内する日本初のさるく博物館です。
Aso tanibito ecomuseum is the first rumbling museum in Japan to research culture and nature of Aso.
尾ヶ石展示室の資料集です。現地をさるく際のご参考にどうぞ(外部に引用される際には、各出典を
必ず明記下さい)。
尾ヶ石村
(『阿蘇郡誌』大正15年発行より抜粋。旧字は新字に改め、句読点を適宜付加した)
1. 位置
本村の西北部は菊池郡水源村内深葉大森林及原野に接し、東は内牧町、南は黒川村の一部及び
永水村に隣す。地域の過半は外輪山の原野之を占め、山上には(本村役場所在地を距る2里)大鶴
部落ありて戸数僅に17を数ふ。
2. 地勢
村の西北部一帯の地は外輪山上の高原地にして、東方村部落は狭長にして巾約12町、長さ2里に亘り、
田園其全部を占め、黒川は平地の中央を貫流するも土壌肥沃ならず。
3. 沿革
明治維新前、内牧手永惣庄屋の支配を受けたりし時代には、狩尾村、的石村、跡ヶ瀬村の3村に分れ、
各村に庄屋を置きて村治をなせり。藩政改革後、大小区より町村制度と変遷し、狩尾、跡ヶ瀬、的石を
一括して尾ヶ石と改称し、爾後時勢の進運と共に諸般の自治村政の発達をなし今日に及べり。
4. 教育
(1)尾ヶ石東部校 明治7年4月創立し、狩尾小学校と称せしが、明治20年4月赤水簡易科狩尾支教場に改め、
24年4月現位置に移転、尾ヶ石東部尋常小学校と改称、37年高等科を併置せり。
(2)尾ヶ石西部尋常小学校 明治8年4月15日創立、明治37年12月新築、39年更に2階建1棟増築せり。
33年度まで単級なりしも34年度より2学級編成をなせり。
(3)農業補習学校 大正10年3月31日付を以て東西両校に農業補習学校の設置認可あり。爾来農閑期50日間、
夜間教授を行ひ、男子のみならず女子も漸次普及しつゝあり。
5. 産業
住民の大部分は農家にして、耕地は概ね田地なるを以て、主要農産物は米なり。麦の植付反別も増加の
傾向あり。又林業畜産業も漸次発達しつゝあり。
豊後街道と二重峠
(『熊本県大百科事典』、熊本日日新聞社、昭和57年より)
菊池郡大津町から阿蘇外輪山を越え、阿蘇谷へ下る豊後街道上にある峠。標高683m。伝承によると阿蘇開発の神健磐龍命が
満々とたたえた湖水を排水して美田にしようと、外輪山の一角を蹴られたが、蹴破ることができず、よく見るとそこが二重に
なっていたところから、この名がついたという。藩政時代は参勤交代のルートであった。明治17年(1884)立野回りの新道が
出来てからさびれたが、今も残る石畳の道は昔をしのばせる。
豊後街道 九州中部の山地を越え、熊本から豊後鶴崎に至る街道。肥後4街道の1つ。コースは
熊本市新町1丁目札の辻を起点とし、藤崎台から京町で豊前(小倉)街道と分かれ、立田口(坪井の赤鳥居)、子飼を通り、これ
から大体今の国道57号線沿いに大津町、清正公道、二重峠で外輪を越え、阿蘇内牧、坂梨、豊後の久住、野津原を経て豊後鶴崎に
至る。豊臣秀吉の天下統一後、大坂が政治の中心となり、熊本と中央を結ぶ重要なルートとして整備された。加藤清正は天正16年
(1588)入国以来、この街道を往復しており、細川氏も参勤交代のとき、大坂に行く最短の道としてほとんどこの街道を利用した。
街道には1里木から始まり31里木までの里数木が植えられ、旅程の目印となり、緑陰は旅人、荷馬車の休憩所となった。また並木も
植えられ、杉並木は熊本市浄行寺から大津を経て二重峠まで続き、笹倉―大利―久住の沿道には松並木が昭和20年代まであった。
参勤交代と的石御茶屋
(『史料阿蘇』第2集、阿蘇町教育委員会、昭和55年より抜粋)
参勤の道路 並木の保存については、細川藩では特に意を注ぎ、一枝を切る者は一肢を切る重罰と、
補植についても関係手永にその責めを負わせた。二重の峠西鍋ヶ谷にはその補植用の杉苗育苗所があった。惜しいことに大津二重峠
間の杉並木は、明治初年に伐採されてしまった。
里数木及び里塚(熊本城下札辻を起点として)
5里木・・・大津の東、旧道に沿う構口際にあった。現在標木がある。
6里木・・・二重峠への旧道にあって標木が立ててある。
7里木・・・右に同じ
8里木・・・坂下村と殿塚の間、大字車帰字大道下。
9里木・・・狩尾一里山、九里塚と称す。
10里木・・・内牧、宇都宮酒店、酒の名を「大榎」と称していた。
石畳 参勤の道豊後路、わけても阿蘇路は道の起伏が大きく、且つ火山灰土のため降雨の度毎に
道路の損傷がひどく、道普請に手間どった。そのため石畳の道が多かったが、中でも二重の峠の石だたみは見事なものである。
峠の頂上から坂下部落まで約2km近く、九十九折の急坂を幅4mの道に側溝、水抜き、水切り等をつけ入念に大石を畳んで路面を
形成している。明治初年以来110年、この間全く手入れをしないにも拘らず今日も尚、原形を止めて原野に残っている。その中には
「岩坂村つくり」と、当時の人々が公役の休み時に刻んだと思われる石もあり、牛王の水のほとりの地蔵尊は数百年間、旅の安全を
祈って今も静かに世の移ろいを見守っている。
的石御茶屋 細川氏は参勤交代、遊覧、巡視、狩猟等のため各所に御茶屋を設けた。豊後路の御茶屋
は年毎に行う参勤専用のもので、それぞれに御茶屋番を置いてその管理に当たらせた。
大津で第1夜を明かされた藩主の行列は、朝8時、御茶屋を出発され、お迎えの者たちのひれ伏す中をゆるゆると進み、高尾野、
新古屋、堀谷などを経て二重峠で人馬共に一息入れながら、阿蘇の噴煙に長途の平安を祈念し、熊本の空に妻子への別離を告げ
石畳の坂道を下った。九ツ(正午)的石の御茶屋に着き昼餐をとられ、八ツ(午後2時)出発、内牧を目ざされた。的石御茶屋番
小糸家の記録によると、元禄10年2月小糸次右エ門忠経の屋敷を御茶屋と定め、その作事改築の上御茶屋番に任じ、(中略)代々
御茶屋番を勤め、明治5年廃藩置県により御茶屋を廃止し、そのまま小糸氏の住居とされ、(中略)現代に及んでいる。
的石と鬼八
(『史料阿蘇』第1集、阿蘇町教育委員会、昭和53年より)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)が往生岳(どんべん岳)の頂上から、的石に向って弓を射られ、鬼八が命の射た矢を拾っては、お返しをしていた。
50回も60回も的石の付近に落ちた矢を拾っては往生岳まで、行ったり来たりすることは、健脚早足の鬼八でも容易ではなかった。
99回までは取りに行ったが、余りの疲れに鬼八は100回目の矢を足の爪先で蹴返した。命はその無礼をお怒りになり、鬼八をお斬り
になろうとされた。鬼八は逃げて根子岳の奥処(おくど)から穿戸(うど)、矢部と走って、そこで捕えられると屁を8つひって
(「やべ」で矢部の名称の起源とも云われている)、三田井境の「窓の瀬」で命と戦って敗れ捕えられた。命は鬼八の首を斬ったが
すぐもとのとおりになり、手足を切ったが、また元のとおりになるので、困られた命はバラバラにお斬りになって、1つ1つを別々の
所に埋められた。鬼八の墓は高千穂のほかにも鬼塚と云われて、方ぼうにある。鬼八の首は斬られて天に舞い上り、怨霊となって夏の
終りの頃、霜を降らせ人々を困らせた。命は鬼八の霊に祈って天から下りてきてくれ、阿蘇の下宮として末永く祀ると頼まれた。
鬼八の霊は天から下りてきたので、阿蘇谷の真中に霜宮として祀られることになった。
隼鷹天神
(『史料阿蘇』第1集、阿蘇町教育委員会、昭和53年より)
1. 祭神 菅原道真
2. 鎮座地 阿蘇町的石
3. 由緒 肥後藩主細川綱利公(1661〜1712年執務)が参勤交代のため船で東上の折、海上で天候が悪化し、激しい浪に船が
呑まれようとした時、1羽の白鷹がどこからともなく、船柱に飛んで来た。すると怒涛は忽ち静穏となり、つつがなく
渡航を終って無事上陸することができた。藩主はその夜旅宿で霊鷹は的石天満宮の権化との神諭を夢見、その霊験あら
たかなるに感じ京都で社殿建立を命ぜられた。昔は境内に茶房まで置かれたが、今はその面影をわずかに残しているだけである。
本社にある絵馬は享保元年(1716)12月に国主が奉納し、また神殿鶴の額は天保13年(1842)12月25日、細川斉護公が奉納された
ものである。祭日は11月25日であったが、現今は尾ヶ石地区はすべての祭日を11月23日に統一して行なっている。
日本リモナイト鉱業
(熊本日日新聞、平成13年4月23日より抜粋)
阿蘇郡阿蘇町狩尾。阿蘇谷に広がる畑の真ん中に、まるできな粉をぶちまけたように黄色一色の工場があった。トラックが通るたびに、
何もかも黄色にしてしまいそうな土ぼこりが舞う。阿蘇谷特産の黄土地帯の真ん中なのだ。
工場は日本リモナイト鉱業(杉原実社長)。周囲に広がる厚さ3mほどの黄土を露天掘りして、乾燥させ、粉砕して出荷している。
黄土の主成分は、リモナイト(褐色鉱)という名前からも分かるように水酸化鉄だ。
同鉱業では、水酸化鉄が脱硫作用を持つことから、粉やペレット状にして下水処理場などの脱硫剤として出荷している。
最近では、養豚場の消臭剤あるいは肉質を改善する特種飼料として需要が伸びているほか、養殖場の環境改善、さらに土壌改良
などにも用途が広がっているという。
褐色鉄は沼鉄鉱とも呼ばれるように水中の鉄分が化学的あるいはバクテリアの作用で酸化され、沈殿してできる。阿蘇谷には約
4万年前から6300年前まで阿蘇谷湖と呼ばれる湖があったとされ、黄土は阿蘇谷湖で作られた。熱水が地中深くからわき出る間に
鉄分をとかし込み、湖に大量の鉄分をもたらした。
断層でできた立野火口瀬から湖の水が白川となって流出し、阿蘇谷は大量の黄土がたい積した広大な湿地となった。黄土は現在、
赤水から坊中にかけての広い範囲に分布しており、層の厚さは2〜3mだが、厚いところは10mもある。推定埋蔵量は100万トン。
小野原遺跡とベンガラ
(熊本日日新聞、平成13年4月23日より抜粋)
日本リモナイト鉱業から車で5分ほどのところにある小野原遺跡。白川の支流である黒川の遊水池建設に伴う発掘調査が
行われている。対象面積は約4万平方メートル。現在半分ほど進んでおり、すでに弥生時代後期(1800年前)の住居跡約50棟が
見つかっている。
住居跡は4メートル四方ほどの掘っ立て柱の住居が中心だが、際立っているのは赤の顔料であるベンガラ。
一面にまき散らしたのか床全面が真っ赤になった住居跡のほか、住居群の中央にある広場の隅には、ベンガラがいっぱい詰まった直径
1.8mほどの穴もあった。
ベンガラはリモナイトをセ氏80〜100度で焼けば簡単にできる。黄土は鉄の含有量が69%と低いため上質のベンガラにはならないが、
黄色い土をちょっと焼くだけで真っ赤に変わる現象は、古代人の心をとらえたに違いない。
阿蘇地方の石棺や古墳には大量のベンガラが使われている。魔よけだったのか、祭祀には欠かせないものだったらしい。しかし、
どこにでもあるものではなく、阿蘇谷は有数の産地。小野原遺跡のほか、近くの上山西遺跡、宮前遺跡などでもベンガラが大量に
出土している。
発掘調査にあたっている県文化課の宮崎敬士さんは「小野原遺跡は黒川の自然堤防の上にできた集落。家を廃棄する時にベンガラを
まいたとみられる。出土する量からみて、黄土を焼いてベンガラを作っていたのではないか。阿蘇一帯や周辺へ出荷していた可能性も
ある」という。
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