1999年6月23日(水) セーヌに思う
今朝はモーニングコールを頼んでいたのでぶじ早朝に目覚めることができた。肩の痛みは心なしか
軽くなったくらいだったが、まあこのまま痛みとも一緒に旅を続けようと開き直ることにした。安い
宿の割りにはたっぷりとした朝食(ただし相変わらずフランスパンとクロワッサン、それにたぷたぷ
珈琲という組合わせのみだが)で結構気をよくし、宿のお兄さんに「ここのエコミュゼに行きたいん
だけど、行き方知ってる?」と聞くとそんなものは聞いたことがない
との答え。ガビーン、どうしようとおののく僕に「とにかくバスセンターに行け」との啓示を与えて
下さった。一抹というか二抹というかとにかく不安を抱きながらバスセンターへ向かい、窓口の人々に
聞いたみたが、やはり誰も知らない。あわわ、困ったぞと冷汗を流す
私をみて係員の皆さんが何やらゴショゴショと話し合っている。まるで仮面ライダーショーで
ショッカーにさらわれた時以来の不安さだ。彼らは僕の示した地図を見て「ここの公園
事務所なら知っている、しかしここに直接行くバスはない、だからまずあのバスに乗ってヤンビールという
街まで行け、そこからは歩きしかないな」と云った。今にして思えばそんな複雑なフランス語が何故分かっ
たのか分からないが、あのときは分かったのだから不思議だ。ともかくオイオイと思いながらバスの発車を
待ち、おずおずと乗り込んでみた。すると運転手さんは先ほど一緒に悩んでくれた方の一人だったので
ちょっと安心し、彼女のすぐ後ろに乗ることにした。以前台湾で、道をしっかり見ようと前の方に乗ったら
(振り返ることができないので)バスの降り方が分からず苦労したことがあったのだが、これなら安心だ。
ベストな所で降ろしてくれるだろう。
バスはルーアンの街を離れると、セーヌ川に沿って田舎、田舎へ
向かった。次第に緑が多くなってくる。いつしか僕は再び何とかなるさという気分に戻って車窓を楽しんだ。
ほんの40分くらいだろうか、運転手さんが「ここで降りて、まっすぐよ」と降ろしてくれた。メルシ!と
元気に降り、しばらくまっすぐ歩いたが、
まっすぐってどこまでですか?。
周囲はまったくの田園地帯だ。これ以上歩いたら人家がなくなりそう
になったので不安になり、適当な人に聞いてみるとまるで違う方向を指すでは
ないか。オイオイ、マジかよ。半信半疑に示された方向へ歩いて行くと、何だか工場
地帯だ。しかもさっきも通った感じ。イカン、このままでは
迷子になると焦った自分は「落ち着け、落ち着つくんだヒロユキ」と暗示をかけ、方位磁石を持って
こなかったことを後悔する。運の悪いことに正午近くで太陽も傾いていない。
ええい!と工場を横目にただひたすら歩く。あとで思ったのだが、フランス人はたとえ知らなくてもどっかを指す。いったいそれは
親切なのかどうなのかと思うのだが、フランスに行かれる方は注意されたい。
さて、炎天下、
ジリジリと太陽が暑い。どれほど時間がたったろうか、ようやくある小さな町に出る。その町の名前が
分かったので、先のルーアン、ヤンビールとつなげてみる。3点が決まれば平面が定まるという数学の授業を思い出し
つつ、なんとか目的の方向には向かっているようだということが分かりホッとする。さらに歩く。延々と
歩く。次なる町に出る。もうあと少しだ、この次の町から西に・・・・って、え?ここで重大なことに気がつく。
自分は今、セーヌ川の右岸を歩いているが、公園事務所は左岸だ!しまっ
た、どうやって川を渡れというのか。道理でバスセンターの人たちが随分
手前のヤンビールで降りろと云ったわけだ。その先には川の渡し場がある
ではないか。しまったぁぁぁ・・・と思ったが時既に遅し。どうすることもできず、ただ先を目指すことに
した。右岸にもサテライトとなっている博物館がある。まずはそこから見ようと作戦を変えた。
歩き出し
てすでに4時間以上が過ぎた。肩どころか、足から何から身体中痛くなって
きた。もう少しでコウデベックという町に着く手前まで来たところで、待望のセーヌを渡る橋が現れた。
あれを渡れば公園事務所に行けるが、しかしもうそれを渡る気力は残っていなかった。
橋がでかすぎる。しかも入口は何だか山をぐるりと廻っている
。せっかくここまで来たものの橋を渡るのは諦め、とりあえず先にコウデベックに行ってそこで
1泊し、体力を回復させて明日また渡ってみようと決めた。
最後の力を振り絞り、まずはコウデベックにある
セーヌ海洋博物館へ。タイプとしては日本で云えば旧態依然の古いものである。展示そのものは日本の
ほうがずっと良いだろう。しかし、展示を伝えるのではなく、歴史を伝えるのだという姿勢が館全体から
伝わってきたし、実際に子供たちにツアーの最中だった。セーヌも度々の洪水に悩まされたのだなぁと
いうことが感じられて、白川流域民として親近感が湧いた。また、セーヌの河川運搬と共に流域の社会が
育ったことも感じられたことは良かったと思う。
しかし未だエコミュゼに来ている実感が湧かなかったし、
館内からもそれを感じられる点がなかったので、係のお婆ちゃんに「ここはエコミュゼか?」と聞いたら
元気よくウィ!と答えられた。はっきり云って、初めてのウィである。正直、マジかよと思った。
自分の中にあったエコミュゼの形が、何か壊れていくような気もした。そして、何がエコミュゼなのか
よく分からなくなってきた。僕はエコミュゼを勉強していて、日本からはるばるここを見に来た
のだということを彼女らに伝えたかった。でも伝えられなかった。フランス語ができなかったからだ。
僕は何となく打ちひしがれて博物館を出た。色んなことが分からなくなってきた。自分が今ここにいると
いうことも。そもそも何故僕は今ここにいるのだろう?日本に帰ったとしても、僕は何故阿蘇に
いるのだろう?分からなくなってきた。どっと不安が襲ってきた。
日も暮れてきた。今夜も宿を捜さねばならない。生憎フランが尽きかけていたので、カードの使える宿を
捜さねば。しかし、何軒か訪ねたがどこもコンプレである。こんな小さな町で何かあってるのか?と思っ
たが、結構人気の町らしい。弱ったぞと思いつつまたある一軒で断わられ、トボトボと出ようとしたら
「あなた、日本人?中国人?」とおばさんに聞かれた。日本人ですが・・・・と答えると、何やらここにも
日本人がいるから会わせてあげる、あと1時間後に来てと云われた。どういう意味だろうと少し不安に思っ
たが、どうやらほかの宿をあたってくれそうな気配だったので、それに期待してとにかくまた来ることに
した。それからセーヌの流れを眺めつつ、さっきの疑問を考えたが、答えは出なかった。なんとも心
落ち着かないが、時間も経ったのでホテルに戻ると、その日本人というのは料理の修行に来ているコック
さんだった。しかし何しろ突然のことで、お互い照れるばかり。とにかくこうなったいきさつを彼に
話すと、彼も日本語は久しぶりだと喜んでくれてまずはホッとした。どうやら住み込みで修行に来ている
彼を気遣って、オーナーであるおじさんとおばさんが日本人(つまり僕)を彼に会わせてくれたらしい。
なるほど、こんな小さな町には日本人は滅多に来まい。僕じしん、日本人はほとんど見ない。それから
何とも不思議な雰囲気のまま彼らの仕事前の食卓に相席させてもらい、飲み物など頂きつつ、しばらく
また断片的なフランス語とジェスチャーで会話を楽しむ中で、この人たちはとても良い人たちだという
ことが分かってきた。職人かたぎのおじさんに、あたたかいお母さん役のおばちゃん、その下で時には
怒られ、時には励まされている若いコックさんたち。そんなやりとりをみているうちに、旅の緊張感がふと
溶けて心温まる思いがした。おじさんは英語をまったく話さなかったが、大袈裟なジェスチャーで笑いを
誘いながら、何の面識もない僕を大切に扱ってくれた。何とも、何ともありがたい思いだった。それから
おばさんが代りに取ってくれた宿におじさんが案内してくれた。その宿も実はお客でいっぱいだったが、
窓の雨戸が故障したため貸していなかった部屋が一つあり、僕は幸運にもその部屋を借りる
ことができた。窓の外は見えなかったが、洗面所やテレビもあり、馬小屋しか借りれなかったマリア様
と比べると雲泥の差だ。これもおじさんが交渉してくれたおかげ、僕のフランス語では絶対借りれなかっ
たに違いない。
見ず知らずの僕にこれだけ親切にしてくれた恩を少しでも返すため、僕は夕食をおじ
さんのホテルに食べに行くことにした。先ほど一緒に話をした皆んなが、忙しそうに働いていた。
ウェイターのお兄さんが「ボナペティ」とお皿を次々に運んできてくれた。あのコトバはいいなあ。
旅の身にしみるよ。僕は一人でワインを傾けながら、夕陽に沈むセーヌに目をやり、こうして
自分が今ここでワインを飲んでいること、日本からここまで一人で来て料理の修行に頑張っている人が
いることなど、徒然にいろんなことを考えた。世界中にいろんな人たちがいる。ここで出会った人たち
とも、ひょっとしたら一生出会わなかったかもしれない。でも、おじさんがいて、おばさんもいて、
僕の関係ない所で、いろんな人たちが、いろんな人生を生きている。世界は広い。そしてたぶん、僕が
阿蘇でやれることもまだあるはずだ。そう、思えた。