梶原宏之という人
an introduction about kajihara, hiroyuki
this page's last update: 05/14/2003

阿蘇たにびと博物館は、阿蘇谷・南郷谷の草原に生きる「谷人」たちの文化と自然との関わりを 調べ、現地を案内する博物館です。
Aso tanibito ecomuseum is a fieldmuseum which researches tanibito living in Aso region, Japan.


 昭和43年、熊本市生まれ。父親の仕事の関係で、生まれてすぐ名古屋・神奈川・静岡・茨城・ 東京など転々とするうちに、実に転校生的性格を身につける。つまり、周りに溶け込み 同調しつつも、同時にもう一人の自分が冷静に現状を客観分析するという(笑) しかし そのことで、文化を相対的にみる見方が身についた。ある土地では当たり前のことでも、別の土地では 全く違うことをやっている。転校生の目からみてこれは大変面白い。楽しい学校生活を送るためにも、 その土地の文化研究は必須であった(笑) 学校はたくさん行ったが、なかでも愛着が強いのは、静岡県富士市立田子ノ浦小学校東京都杉並区立天沼中学校。同窓の方がもし居られたらメール下さい(^_^)

しかし生まれた熊本には住んだことがなかったので、大学は熊本大学を熱烈志望。東京を離れ、 憧れの熊本生活を始める。上記の育ちのせいか、人類学(民族学)を希望して文学部に入るが、当時は 熊大には人類学教室がなく大ショック!仕方なく海外実習(見学?)のある地理学教室へ進むが、異文化研究とはほど遠く、何しに大学に 来たのかと放心のアジア旅行に出る。韓国、台湾、中国、香港、マレーシア、シンガポールと回るうちに、 世界の人々からは自分は日本人にしかみられないという当たり前のことに気がつかされる。 そして、日本についての彼らの質問に何ら応えられない自分を思い知らされる。つまり、自分とは 何者なのか、いわゆるアイデンティティの発見と喪失に出くわす。

自分とは何か、日本とは何かを考えるため帰国。のち、民俗学研究室の扉を叩くことになる。熊大に、日本でも数少ない民俗学(民族学ではない)が あったのはある意味 幸いだった(当初は日本に全く興味がなく敬遠していた)。安田宗生先生のもとで実際に九州の 農山漁村をフィールドワークに回る。これまでにない体験、見聞。大きな衝撃。知らなかった 日本をまざまざとみせつけられる。古老たちの目に光るものへの動揺。自分はこれまで何をやっていたのか。 日本は最も遠い異文化だった。彼らがいま話してくれた行為に対して、流した涙に対して 自分は何ができるのか。自分が学校の歴史の時間に習ったあの日本人たちに、こんな人たちはいなかった。 自分は学校で日本の何を学んできたのか。 このままでは埋もれてしまう彼/彼女ら=真に日本を支えてきた者たちの 生きざまを伝える仕事を志し、民俗学の博物館学芸員を目指す。

学芸員修行中に出会った千葉徳爾先生(熊本大に集中講義に来られた)の誘いにより、筑波大の 大学院に進む。所属教室は文化生態学。 環境と文化との関わりがそこでの、そして生涯のテーマとなる。所与の自然環境のなかで、人は如何にして生きるか。 その社会組織や民俗文化の成り立ちを考える。修論「村落祭祀の生態的意義とその変化 ── 熊本県 玉名市津留を事例として」。修士号と学芸員資格を取得し、運良く九州で博物館学芸員の 採用を見つけ合格、九州に戻る。

帰九後、佐賀県にある民間博物館に学芸員として勤務。仕事は地元の伝統的産業の民俗文化研究との 話であったが、しかし実際は研究はできず、来観者の案内や館内の清掃作業のみであった。しばらく勤務 を続けたが、こんなことをしている場合ではない(話者や資料が散逸する)との焦り、世話になった 古老たちへ恩が返せぬことへの申し訳なさ、企業のプロパガンダとしてではなく地域住民と共にある 博物館で働きたいという願いなどが錯綜し、意を決して辞職。候補地選定の上、単身阿蘇に飛び込む。 千葉県立中央博物館の学芸員・林浩二氏の示唆によるフランスのエコミュゼ(エコミュージアム)の思想的影響大。 阿蘇を選んだのは、まず憧れの(←学芸員にとって大事)熊本ということ、世界一級のカルデラという あまりの景観のすごさ、それでいて市内まで1時間という近接性。しかも公共 博物館が1つもなく、研究相手にとって不足なしという未開拓性。この壮大な景観が 実は永年の人の営みによって形成されたという環境史、そしてそれが今危機にあると いう現実性。またエコミュージアムを考える上でも物理的にカルデラでテリトリが切れると 考えた。決め手は温泉の村民料金半額(笑)
引越しました!
さて飛び込んだものの、当然、コネなし、金なし、仕事なし。親切な地元の方々のご紹介で、屋根と柱のみの廃屋をお借りすることができ、 早速大工さんと二人で床と壁を入れ始める。釘も全部自分たちで手打ち。そうして何とか生活できる 場所を確保。早速貯金もつきたので、とりあえずは家の半分だけ床を入れて小さな学習塾を開き、 あと郵便局の配達アルバイトも始める。一年間はそれで生計を立てるのに必死だった。

一年たって塾生たちもぶじ増え、生活も安定してきたので、徐々に本来の目的である博物館 づくりに取り掛かる。博物館づくりは地域づくり、人づくり。青年団は勿論、消防団、 隣組にも入って皆さんに色々助けてもらったり、勉強させてもらったりしながら、どんな博物館がここでは 役に立つのかを考え始める。趣味で三味線が弾けたので、祭りや敬老会等に参加させてもらえた。 が吹けたので神楽保存会にも加えて頂けた。また郵便配達員として地域の細かい部分をみることができたのも予想外の収穫だったと思う。

阿蘇に来て3年が経った。少しずつだが、その調査の結果を『谷人』発行として皆さんにお知らせ できる所まできた。ご年輩の皆さまには懐かしいと仲々好評である。嬉しい。しかし毎号の 印刷代など経費や、仲々形の見えない博物館へのあせり・いらだちといった精神的不安もつのる。 気力・体力・経済力 ──それが尽きるのが先か、博物館ができるのが先か。人生の賭けである (経済力はすでに尽きているという噂もある・笑)。

※ 以上、阿蘇に来て3年目(まだ30代前半)に書いた文章です。さて、今は・・・

カジハラ・ヒロユキ(梶原 宏之)

昭和43年熊本市生まれ。熊本大学文学部地域科学科卒業、筑波大学大学院環境科学研究 科修了、修士(環境科学)。久光製薬中冨記念くすり博物館学芸員、熊本県文化企画課県立博物館プロジェクト班職員などを経て、 現在梶原博物事務所代表および阿蘇たにびと博物館学芸員。フランスでのエコミュゼ研修経験あり。 北九州市立大学、西南学院大学、熊本学園大学等非常勤講師。南阿蘇村文化財保護委員、白水岩戸神楽保存会員、南阿蘇村消防団員。 専門は民俗学、東アジア研究、博物館論。日本民俗学会、日本地理学会、九州人類学研究会、 生態人類学会、比較民俗学会(韓国)会員。趣味は旅と料理と音楽。人生の信条「結局、やるか、やらないか

※梶原宏之の業績につきましては、梶原博物事務所のサイトへ まとめましたのでそちらをご覧下さい。