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谷人の心象
images of tanibito those who have lived in Aso region, Japan
this page's last update: Nov/19/2006

阿蘇たにびと博物館は、阿蘇全体を博物館とし、阿蘇に生きる人びとや暮らし、 自然との関わりを展示して案内するエコミュージアムです。
Aso tanibito ecomuseum is the first rumbling museum to research culture and nature of Aso.

●以下にあげている写真と解説は、トップページの過去ログです。無断転用を禁じます。
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2003年 2004年 2005年 2006年 2007年

2006年1月表紙
金馬簾
 年末警戒から出初式と、正月は消防団の季節でもある。南阿蘇村吉田新町では、今でも消防団員が戸別に地区を訪問し 年末警戒のお願いと寄付を集めている。心得た古老たちが何も言わずとも金封を用意してねぎらいの言葉を掛けてくれるのは、 この世知辛い世の中で本当に有難い。写真は昭和10年にこの新町消防分団が金馬簾を拝受したときの記念で、金馬簾とは金色の 馬簾(まとい)のこと、消防団にとって一番の名誉の証だった。もうこの制度自体なくなってしまったが、地域の意識はずっと 大切にしていたい。
写真:山村美比古氏所蔵、233白水村吉田、昭和10年2月6日

2006年2月表紙
地搗き
 今の人は意識しないと思うが、かつて家を建てるといえば冬から春だった。 大勢のムラ人たちの協力が必要だったので、農閑期でないとできなかったからだ。 しかもそれら労力や材料費のほとんどはムラ人たちの互いの無料奉仕だったから驚く。 写真は旧白水村役場を建てるときに村人たちが集まって基礎を搗いているところ(昔の 基礎は地面を丸太で搗き固め石を置いた)。地搗き唄に賑わい、棟上げのヒトギ(餅)投げに賑わい、 落成のお披露目に賑わい、家建てはムラの人びとの冬の楽しみでもあった。
写真:山村美比古氏所蔵、233白水村吉田、昭和9年

2006年3月表紙
送別会
 阿蘇の山に火が入りようやく春が来ようというこの季節、親たちにとっては世話になった教員との 別れの季節でもある。写真は「中村先生を送る白水校父兄母姉幹部」とあり、昭和12年4月であるから ちょうど盧溝橋で日中戦争が始まる3ヶ月前だ。写っている35人のうち男18人に女17人、女は全員着物で 男は5人だけ洋服、しかも全員前列。マチから遠い阿蘇では各学校に教員宿舎があったが、マイカー全盛の ご時世で住む者もいないまま今は朽ち果て、ムラ社会と教員との距離を表わしているようにも見える。 写真から70年後の今日、私たちはどんな春を迎えようとしているのだろう。
写真:山村美比古氏所蔵、233白水村吉田、1937年4月

2006年4月表紙
御池参り
 おそらく昭和初期頃と思われる観光絵葉書で「阿蘇山旧噴火口の白煙」とある。よくぞこの格好で ここまでと感心するが、もちろん現代は立入規制されこんなに近づくことはできない(雨も降っていないのに 皆傘を持っているのは何故だろう)。火口には池があり、火山活動に伴なって水位が上下するため古くから 神霊池として崇められてきた。「お池さん」と呼ばれ、阿蘇山に登ることは「お池さん参り」と呼ばれていた。 つまり阿蘇登山は単なる観光ではなく宗教的な参拝だったのだ。今でも山に入る前に深々と頭を下げて入る 山人も少なくないが、そうした山と人との関わりは忘れずにいたいと思う。
写真:阿蘇たにびと博物館所蔵、199古坊中、昭和初期頃か

2006年5月表紙
夜峰
 連休阿蘇を離れて帰ってきたら、夜峰が半分真っ黒になっていた。4月29日にもう十数年放棄されていた 西側半分をついに野焼きしたようだ。慎重を期して、ボランティアも含め約200人も導入したらしい。野焼きを した場合としなかった場合の見事な実例であった夜峰も、これでまたぶじ草原に戻ることだろう。写真は中松小の 遠足で、夜峰裏のここ池の窪牧野まで歩いていたのかと驚く。伝説では健磐龍命の嫁神がこの地で出産の際、 南郷谷から丸見えなのを恥ずかしがり、命が一夜で築いたから夜峰らしい。山を全部焼いた現代人も、池の窪まで 登った小学生も、一夜で目隠し山を作った神様も、なんとも阿蘇らしいスケールの話である。
写真:中松小学校(南阿蘇村)所蔵、235中松、昭和40年頃か

2006年6月表紙
仮川橋
 また激しい九州の梅雨がやってくる。昨年9月の台風以来運行不能に陥っている高千穂鉄道は、廃線も含めどうも 全面復興は厳しいようだ。これで阿蘇と高千穂の接続という長年にわたる夢の架橋も文字通り流れてしまった。大雨に よる路線流出は阿蘇でも茶飯事で、写真は昭和28年水害後の仮川橋(奥に一心行桜)。割と平穏な印象も受けるが それでも高森線や橋梁は流失してしまっている。古老たちはこうした心象も持っていたので、阿蘇の草原を守ろうと してきた。草原は牛を養うためだけのものではなく、阿蘇の人びとの生命、家族、家屋、集落も守ってきたのである。
写真:阿蘇たにびと博物館(南阿蘇村)所蔵、235白水村中松、昭和28年

2006年7月表紙
湧水プール
 筑紫女学園大(福岡)に講義に出かけた。学生たちは阿蘇がなぜ草原なのか知らなかったようだが、私も筑紫女学園が 水泳王国と呼ばれる名門とは知らなかった。写真はうちのすぐ近くの中松小のプール建設で、当時は新校舎建設が終わり さあ次はプールだ!と盛り上がっていた時代。建設には地区住民総出であたり、子どもらも仮川から栗石を手渡しで運び 手伝った。現在は新築移転されたが、かつてはここ池の川水源横にあり、水源の水を引いたプールだった(とても冷た かったらしい)。34年のプール開きには背泳のヒロイン・田中聡子氏が招かれ大いに話題を呼んだ。氏はその翌年ローマ オリンピックで銅メダルを獲得するが、彼女も筑紫女学園の卒である。
写真:中松小学校(南阿蘇村)所蔵、235白水村中松、昭和33年

2006年9月表紙
松田農場
 松田喜一氏(松橋町)は熊本では有名な農業の神様だ。独自の農業技術と教育普及で県下に多くの門下生を抱え、 昭和の農聖と呼ばれている。戦後色見村戸刈地区にも阿蘇支場ができ、多くの若者たちが農魂を学びに集った。 写真は草千里で農友会阿蘇支部が主催した「松田先生講演会」。話が上手く大きかったそうで、なぜ色見に農場を 構えたのかの話に、噴火口にテンミョウナベ(天命鍋)を掛けるべく大農場をと、まるで健磐神話並のスケールで 意気込みを語ったという(その後氏は八代の干拓にも向かう)。色見への往来に吉田新町(南阿蘇村)を通った際、 円林寺前の石橋を踏み外されたといい、地元の古老の間で親しみを込めてマツダコカシと語り継がれている(石橋は 現在明神池水源に移築されている)。
写真:阿蘇たにびと博物館所蔵、235白水村中松、昭和33年10月

2006年11月表紙
花の長
 南阿蘇では「霜月坊主に春コッテ」という。これからの長い冬に向け、忙しく走り回る時期だ。秋の稲刈りが 終わって、熱く燃える男たちが始める仕事が酒造りである。発酵熱を抑えながら作る酒造は冬の仕事であり、 焼酎王国・九州で酒が作れるとは阿蘇は極寒の土地と分かる。写真は今はなき吉田新町地区の 高橋酒造、銘柄は「花の長」だった。牛馬の売買で栄えた新町はこうした造り酒屋や旅籠、映画館まで建ち並び それは賑わったそうだが、時代がすべて押し流した。南阿蘇では現在、高森町に山村酒造が残るのみだが、 あそこに下がる杉玉を楽しみに、香り高い新酒に囲炉裏の田楽、雪を眺めながらの露天温泉というのも オツな冬の愉しみである。
写真:阿蘇たにびと博物館所蔵、233白水村吉田、昭和初期