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谷人の心象
images of tanibito those who have lived in Aso region, Japan
this page's last update: Jan/04/2006

阿蘇たにびと博物館は、阿蘇全体を博物館とし、そこに生きる「谷人」たちを 展示して応援するエコミュージアムです。
Aso tanibito ecomuseum is the first rumbling museum to research culture and nature of Aso.

●以下にあげている写真と解説は、トップページの過去ログです。無断転用を禁じます。
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2003年 2004年 2005年 2006年 2007年

2005年1月表紙
内牧温泉
 内牧協同温泉階上より見たる内牧町、とある絵葉書。昭和8年の町営温泉落成を記念したものか。湯浦、湯山といった 地名にあるように歴史は古く室町まで遡れるというが、現在のように内牧のあちこちに浴場がみられるようになったのは 明治30年になってから。井戸掘職人が試掘したところ湯が湧出し、それを見た人びとが我も我もと続き、ついには半数もの 家が湯を持つ「千軒タライ無し」状態だったと伝えられる。そのうち温泉商売を始める者が現れて温泉町として活気を呈した。 湯を田に入れて施肥に代える者もいたらしい。こうして当時官公庁が宮地に移りさびれかけていた内牧が元気を取り戻したの だが、再び現在、町村合併で役場が宮地に移るためその危機にある。地元住民が一致団結して再び足元を見つめ、自らの良さを 再発掘しようとしているのは歴史の繰り返しでもあるが、今回もどうか内牧らしい町づくりとなるよう祈っている。遡源である 湯山温泉は、低温ではあるけれどその薬効は現在でも広く認められている。
写真:阿蘇たにびと博物館所蔵、161阿蘇町内牧、昭和8年頃か


2005年4月表紙
田起し
 先日天草を訪ねたら、4月上旬だというのにもう田植えが終わっていることに 驚いた。天草は全国でも超早稲の土地らしい。なるほど暖かい地方ならではか。ところで 熊本で天草の次に早植えなのはどこか、なんと驚くことに阿蘇と聞いた。 こんな寒い土地でと思うが、寒い土地ゆえ霜や風の害を避けるため、どうやら近世のうちに 計画的に早められたらしい。感心しきり。阿蘇では田を起す際、数匹の牛を連ねて操る。 先頭に熟練した牛をおき、不慣れな牛を後方につける。こうして先輩牛を見ながら 恐々仕事を覚えていくのだが、今となっては田に入れる牛は1匹もいない。同じ あか牛だが、いま阿蘇にいるのは全て肉用牛である。
写真:後藤晴二氏(南阿蘇村)所蔵、232白水村白川、昭和29年




2005年5月表紙
節供
 団地を転々とした私から見ると、阿蘇の子ども祝いはなんと派手かと感心する。鯉のぼりは窓から ちょいと出すような代物ではなく、杉の木を庭に丸々1本ドーンと重機で立てる。天辺の葉だけ繁々と 残して皮は剥ぎ、子の名を染めた旗を更に高く接ぐ。周囲に「これでもか」と言わんばかりである (ちなみに韓国でも子どもの日は5月5日だが、鯉のぼりは立てない。中国は6月 1日)。阿蘇の鯉のぼ りで不思議なのは、竹の丸籠を必ず付けること(民俗学会でも古くから話題となっている)。しかし 地元では誰も理由も名前も知らないのがまた謎だ。女の子の節供もしかり、大いに祝われるがしかし 盛大に祝って貰えたのは昔は男女とも長子だけだった。写真は、阿蘇の子どもたち(ヒトとウシ)。 ちなみに節供は節日の祝いに供物を供すので節句でなく節供が正しい。
写真:松崎喬三氏(南阿蘇村)所蔵、232白水村白川、昭和35年頃か

2005年6月表紙
田植え
 6月に入り阿蘇もようやく田植えが終わったようだ。かつては終わるとサナブリなどと呼ばれる祝宴で 賑わったが、機械化され家族のみの労働となった今ではそうした近所づきあいもほとんどなかろう。今で こそ阿蘇コシヒカリの産地として米どころに見られる阿蘇も、しかし元来は米に適した土地ではなかった。 高地は水がなく、低地は逆に水がありすぎて(ムタという地名がついている。写真は恵まれたほう)、 裕福な土地は限られていた。その上に冷涼、大雨、大風、大雪、大霜、ヨナ(火山灰)である。阿蘇で 生きるためには大変な努力や工夫が必要であり、痩せた土を肥やすため人びとはあか牛と共にせっせと 山から草(緑肥)を運び続けた。その結果でもある阿蘇の草原を眺めるとき、いつもその時代に生きた 人々の顔が浮かび頭が下がる。かにかくに、皆さんお疲れさまでした。
写真:松崎喬三氏(南阿蘇村)所蔵、232白水村白川、昭和35年頃か

2005年7月表紙
SL
 熊本―宮地を走るJR九州のあそBOY(8620形)が今夏で運転を終了する。老朽化で豊肥線の急坂に耐え られなくなったらしい。九州唯一の現役SLだったが、1988年の復活以来17年で再び幕を閉じる。一方南 郷谷ではトロッコ列車が三セクで頑張っているが、勿論こちらもかつてはSLだった。写真は根子岳を背景 に走るC12で、1975年まで活躍し、現在は高森駅前に展示されている。大分とつながり開発に沸く阿蘇谷に 対し、取り残された南郷谷は必死に宮崎へトンネルを掘るが、度重なる出水事故、町水道停止、自衛隊 出動と大混乱の中、1986年の国鉄高森線廃止により九州横断の夢も消えた(事情は高千穂鉄道も同じで ある)。文字通り岐路となったそのトンネルで今月開かれる七夕祭には、当時の谷人たちの夢が重なって 見える。
写真:所蔵者不明、阿蘇たにびと博物館複製保管、高森町、1970年頃か

2005年8月表紙
玉蜀黍
 トウキビの季節だ。夏の阿蘇といえば登山道で手を振るキビ売りを思い出す人もいるだろう。先日ある 修学旅行の受入先で、日本に最初に入ってきたトウキビが阿蘇高森でも栽培されていたことを知った。 300年ほど前に草部地区の幸野さんというかたが恐らく馬見原の商人から手に入れたとされているようだが、 驚きである。写真は高森町のすぐ隣の南阿蘇村両併地区で「熊本県委託玉蜀黍採種圃」とあるが、後ろの 品種は主に飼料用と思われる。彼らは翌年から戦争に刈り出されていくが、皮肉なことに阿蘇を救った 食用新品種が入ってくるのは終戦後、米国からだった。スイートコーンは甘くて美味しいが、デッチ (阿蘇の在来種)の風味を懐かしむ人も少なくない。
写真:後藤敬喜氏(南阿蘇村)所蔵、白水村両併、1940年8月24日

2005年9月表紙
特定郵便局
 郵政民営化解散とは恐れ入ったが、近代日本における身分制度の瓦解をみてとれなくもない。維新後4年で 郵便制度が敷かれたとき、その窓口を担ったのは地元名士たちであり、彼らは名誉と引き換えに 私財を提供して任務についた。故に世襲制、不転居であり、その長年の権力構造が現与党の一派にもつながって いて揉めているわけである。写真の吉田郵便局も含め阿蘇も近年まで名士による世襲制だったが 時代も変わった。左の立看板には「支那事変貯蓄債券売出し」とある。軍資金集めの国債であり、 地元の誠実さとは裏腹に国の無鉄砲な集金とその散財ぶりは相変わらずにも見える。
写真:山村美比古氏(南阿蘇村)所蔵、白水村吉田、昭和13年頃か

2005年10月表紙
稲刈り
 去年は台風が九つも来て熊本の作況指数も過去最悪となったが、今年はなんとかぶじ収穫できたようだ。 かつて稲刈りといえば猫の手も借りたいほど忙しかったが、今ではほとんど機械化されて手伝うことがなく なってしまった(この時期たくさんの修学旅行生が農業体験に来てくれる時代となったのに皮肉なことである)。 写真うしろにずらりと掛干しが並んでいる。旧白水村内では東の両併地区から婚姻などにより西へ伝播した 文化らしい。掛干しは格段に米の味が良くなるものの手間がかかるので広い田では大変なのだが、写真では 結構な量で感心する。一束刈るにも四苦八苦していた修学旅行生たちにもその大変さが伝わってくれることを願う。
写真:後藤敬喜氏(南阿蘇村)所蔵、白水村両併、昭和12〜13年頃か

2005年11月表紙
刈干し切り
 朝夕すっかり冷え込んできた。これから長い冬を迎える阿蘇では今あちこちで刈干し切りの姿が見られる。 かつては草を刈ってから稲刈りだったが、今ではすっかり逆転した。この草の小積みかたも、簡単なようで 実は相当難しい。下手なら崩れてしまうし雨露で草が腐ってしまう。昔は家族総動員で、原野まで遠い阿蘇谷や 小国方面では草泊まりという民俗も作ったが、しかしそうした風景もすでにない。再び米国からの牛肉輸入自由化が 決まった今、いつまでこの原風景を見ることができるだろう。一方で、危険な外国草よりも安全な国産草の活路を 見出そうという動きも出てきた。これからも淡々と阿蘇を記録しつつ、いつの時代も阿蘇の人びとの幸せを願っていきたい。
写真:菅田守蔵氏(南阿蘇村)所蔵、白水村両併か、年代不明

2005年12月表紙
冬仕度
 年の瀬になっても今年は一向に寒くならないといぶかしがっていたら今度は大雪が降ってきた。年内の結構な 雪も久し振りではなかろうか。どの翁媼と話しても、昔ほどは阿蘇も雪が降らなくなったらしい。スキーや スケート場があったのは昔の話だ。長い冬を前にして谷人たちは冬支度に忙しい。冷蔵庫もない時代、漬物や だご汁などの製粉料理が発達したのはなるほど、焼酎でなく日本酒蔵が現存するのもなるほど、漬物野菜や牛馬の 飼料を納屋の壁いっぱいに吊るして干すのは今でも阿蘇の風物詩である。正月はそんな風情をのんびり温泉から 眺める幸せを堪能することとしよう。皆さんよいお年を。
写真:松崎喬三氏(南阿蘇村)所蔵、232白水村白川、昭和35年頃か