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谷人の心象
images of tanibito those who have lived in Aso region, Japan
this page's last update: Jan/24/2005

阿蘇たにびと博物館は、阿蘇谷・南郷谷の草原に生きる「谷人」たちの 民俗文化を調べ、それを伝えていく博物館です。
aso tanibito assomusee is the museum which researches tanibito have lived in Aso region, Japan.

●以下にあげている写真と解説は、トップページの過去ログです。無断転用を禁じます。
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2003年 2004年 2005年 2006年 2007年

2004年1月表紙
寺子屋
白水村中松にある正教寺(浄土真宗)での「寺子屋」で、昭和5年頃とのことである。中央に黒服の先生が新旧2人おられ、 彼等の赴任交代を記念しての集合写真らしい。明治の世となり新しい学制発布が出されたのが明治5年。それにより全国の 寺子屋は廃止されたはずであり、現に明治8年には中松小学校もできているのだが、それではこの写真は何だろう。史料がなく、 調査も不充分でよく分からない。手に数珠を持っている子が多いので、仏教学校のようなものだろうか。江戸時代(文久3〜 明治3年)には松ノ木地区に佐藤倖次郎なる先生の寺子屋があり、男女75人が学んでいたとも聞くから、ひょっとしたらその 流れかもしれない(この写真にも90人弱の子どもが写っている)。近所縁者も加わっての撮影だろうが、かつては子どもも 多かったのだと驚く。ちなみに寺子屋とは上方の呼称で、江戸では手跡指南所といった。学校までも屋号で呼ぶのは如何にも 商売の都らしい。
写真:笠野伊知雄氏(白水村中松)所蔵、235中松、昭和5年頃

a Terakoya
The owner says this will be a Teragoya, means an private elementary school in old Japan, at Shokyo temple, Hakusui, Aso about 1930. There are two teachers in black in the center and this would be taken to commemorate their relieves. Most all the terakoyas in Japan would be abolished in the Meiji Era(1868-) and modern schools were founded, then so what is this ? We have few informations about this photo but we think this something like those terakoya. We can see some students have prayer beads in their hands so this will be a Buddhist school. We also hear that there was a terakoya around this area in the Edo Era and were 75 students in it. We are surprised to know how many children there were in the old days !
photo: owend by Mr.Kasano(Hakusui vill.) 235Nakamatsu, about 1930

2004年2月表紙
山上終点
 兵庫の観光客が内牧の郵便局から投函したと思われる絵葉書で、昭和6年3月20日午後の消印がある(ちなみに当時の切手代は2銭)。 写真には「山上登山自動車終点より噴煙を望む」とある。ここが登山バスの終点で、懐かしいボンネットバスも見える。右奥に見え る三角屋根が西巌殿寺の山上本堂でこれは現存しているが、しかしほかに見える建物群はすべて残っていない。当時は旅館がこぞっ て休憩所を山上に設置し宿泊客を呼び込んでいたようで、看板を見ると今では聞かない店名も数多い。これらが当時どんなサービス をしていたのか、そこにどんな文化があったのか、いわゆる「阿蘇登山」にまつわるまとまった文献はまだ見たことがない。これだ け多くの人間が毎日登っている阿蘇山だが、しかしまともに記録されないまま、人も、店も、道も、どんどん変わっている。今と なっては、当時の登山道すら草に埋もれてどこだか分からない。
写真:阿蘇たにびと博物館所蔵、000山上、昭和初年頃

2004年3月表紙
山上鳥居
 先月、かつての山上の賑わいをご紹介したが、今度は逆から撮った絵葉書も見つけた。噴火口を背にして山上阿蘇神社から眺めた 景観であり、まるで宮地の門前町のような様相を呈している。右手に見えるのは西巌殿寺の山上本堂だが、左手がいわゆる茶店群の ようだ。看板には「小山旅館支店中岳御宿藤屋」などとある。その下に「1200」と書かれた吊看板があるのは、次に出るバスの時刻 か値札か何かか。また、手前にセーラー服姿の客がいるが、記念スタンプの日付を見ると昭和18年5月、もちろん太平洋戦争のさなか であり、水兵は阿蘇山観光どころではなかったはずだから、写真が撮られたのはもっと前の昭和10年代前半だろう。いずれにせよ、 山上の様相を今のうちにもっと集めておきたいという気になってきた。皆さんのご協力を乞う。
写真:阿蘇たにびと博物館所蔵、000山上、昭和10年代前半か
※茶店部分を拡大したものをこちらにあげました。

2004年4月表紙
坂梨小
左の門柱に「坂梨尋常高等小学校」とあり、右に新しく「坂梨村立青年訓練所」とある(右端にもう1枚あり判読困難だがおそらく 「坂梨農業補習学校」と思われる)。明治18年の管制改革により小学校は尋常科(4年)と高等科(4年)に分かれ、今の義務教育に あたる尋常科で修身・読書・作文・習字・算術・図画・唱歌・体操、女児は裁縫を学び、高等科はこれに地理・理科・歴史を加えた ものが、明治40年に尋常小学校6年、高等小学校2年となって各地に高等科併置の学校が現れた。坂梨もその1つで明治6年北駄原 (手永会所跡)に創設され、11年に平口(大黒屋裏)に移転して「隆盛学校」と称し、 20年に現在地に移転して「梨陽学校」と 称した(明治25年「坂梨小」に戻る)。高等科の併設は大正11年で、農業補習学校は大正7年である。大正末の記録には学級数7、 児童数306、正教員数5とあるが、現在の児童数は100。なお、明治4〜43年の教科書が193冊も所蔵されているのは大変貴重なこと である。
写真:猪献一郎氏(熊本市)所蔵、120坂梨、大正末〜昭和初期か

2004年5月表紙
屋号
 白水村吉田新町の子供会に招かれたのを契機に、子どもたちと地元の屋号調べをした。吉田新町は今の白水郵便局がある通りで、 かつては南郷一の繁華街だったが今では店舗は殆んど無くなっている。ただ30ほどの屋号がまだかろうじて生きており、それを集めて おこうというわけだ(写真は旅館の片隅に興梠電気商会が開かれた頃のもで、屋号は「辻の家」)。屋号調べは時代が重複するのが 難しいが、しかしそれでも子どもたちは自分の地元がこれほどの町屋であったことや、長老たちの豊かな記憶に接して驚いていたよ うだ。私も本当にこの町を実際見てみたかった。大分県豊後高田市の寂れゆく商店街が「昭和の町」として復興を遂げている現場を 先日見学したが、眺めながら「ああ、新町もあと少しだけ早く気づいていれば」と悔しくて仕方がなかった。例えばこの写真にある 店舗や自動車たちが未だ現役でそこにあったならば。阿蘇が今とはまた違った価値を有することもできたろうし、店人が時代の波に さらわれることも防げたかもしれない。しかし店舗自体がほぼなくなった今では、そうした復興も夢物語だろう。
写真:興梠二雄氏(白水村)所蔵、233吉田新町、昭和29年頃

2004年6月表紙
山上茶店
 再び阿蘇山上の写真を手に入れた。当時阿蘇で販売されていたと思われる絵葉書の1枚である (押印のみで未使用)。最も絵になる中岳を背に撮られた写真だから、送る人にとってはつまらないものに見え、ゆえに使用され なかったのかもしれないが(あるいは後方の古坊中や往生岳が救いだったか)、しかし山上茶店がどんな並びになっていたのか ちょうど知りたかった所なので、これが使われずに競売に出されたことは幸いだった。茶店らは軒を連ねて数列できていたかの ようにも想像していたが、これを見るとどうやら参道の両側だけだったようだ。右、阿蘇神社の鳥居から出て左手に土産屋が並び、 右手に西巌殿寺、そしてバスやタクシーのターミナルといった並びだったと思われる。 右手いちばん奥にある建物は初期の阿蘇山測候所だろうか(昭和天皇の行幸を契機に昭和6年設置された測候所だが、その後 被災により昭和34年建て替えられ、平成10年からは地上基地に移って山上は無人化されている)。かつての山上の賑わいが想像されてなんとなく 羨ましい。
写真:阿蘇たにびと博物館(白水村)所蔵、000阿蘇山上、昭和初期頃

2004年7月表紙
三合目
 昭和初期の絵葉書で「阿蘇山登山バス三合目附近車窓に望むる根子岳、高岳」とある。現在の坊中登山線、黒川牧野附近だろう。 今ではまず耳にすることはないが、かつては阿蘇山にも合目があったのだ。これは距離か標高かで基準があるのかと思えば、 どんな山でも頂上までを10等分するのだそうだ。つまり山によって1合の長さは異なるし、さらに1合ごとの長さも同じとは限ら ないとのこと。登山する場合の困難の度合いを目安として称されるものらしい。となると、この3合目とはいったい誰が定めた ものなのか気になる。写真ではボンネットバスが走っているが、当然自動車での困難さではないだろうから、こうした呼称は やはり人間様の足で麓から歩いていた頃のものだろう。益々もって当時の登山道を知りたくなった。さて、ボンネットバスの ボンネットとは何か。英国でいう女性や子供用の帽子であり、バス前部にあるエンジン部分の覆いがそれに似たため呼ばれた ものである。今阿蘇でこのバスを復元しようという話もある。バスの歴史や小道具も博物館としてはおさえてみたい。
写真:阿蘇たにびと博物館(白水村)所蔵、190黒川、昭和初期頃

2004年8月表紙
葬送
お葬式の話というのは、調べねばならない大事な民俗文化ではあるが、他のに比べて何となく聞きづらく、それでいつも盆頃に まぎれて聞くようにしている。最近は葬式も業者が来て楽になったが、しかし昔は誰か亡くなると近所は大騒ぎだった。役場や 和尚や遠い親戚にも急いで知らせに行かねばならなかったし(しかも電話はないから徒歩で)、棺やら花やら六道やらの葬式道具 はみな手作りだったし、押し寄せる接客のためのお茶から料理からそりゃもうおおわらわだった。なかでも一番の重労働は土葬の ための穴掘りで、阿蘇ではこれを池堀りといって大変ねぎらっている。どこに穴を掘るか、つまりどこが墓所となるかは、阿蘇の 人びとの空間認識をあらわしている。現世と常世の境界だ。面白いのは、一の宮町中通にある古墳の上にたくさんの墓石が乗って いること。まるで「親亀の背中に・・」である。さて、今年のお盆は皆さんどう過ごされますか?
写真:興梠二雄氏(白水村)所蔵、233白水村吉田、終戦前後

2004年9月表紙
揚水
今でこそ阿蘇は米どころとして知られてもいるが、しかしかつて米がとれたのはごく限られた場所だけだった。何しろ 米を作るには大量の水が必要だ。阿蘇は水は豊富だが、しかしそれは谷底の最も低い部分を流れている。よってその水を田まで揚げるのは大変な 労苦で、低湿地に近い集落はその恩恵に預かったが(そのかわり水害の危険とも背中合わせだった)、その他の地区は水のない 畑作地であり、トウキビ・ムギのほかヒエ・アワといった雑穀が食事の中心だった。ボーリングにより水が高地にひかれたのは、 例えば白水村白川では写真の昭和35年。それから念願の田圃を手にしていくわけだが、しかし当時こうしたことのできた一部の農家は 大変な羨望と、それから大変なやっかみにもあったようだ。今も昔も米は農家の憧れの作物であり、そのためにかけた情熱も財産も相当な ものだがしかし、国は今その4割の減反を彼らに強いている。山上から見渡した「阿蘇の千枚田」も、今やほうほうの体にみえる。
写真:松崎喬三氏(白水村)所蔵、232白水村白川、昭和35年4月

2004年11月表紙
冬着
阿蘇は厳寒の土地で1年の半分は冬ですというと驚かれることがある。阿蘇は九州だし火山もあるから暑いのでは?と言われて こちらが驚くがとんでもない。昨今はめっきり積雪も減ったが、しかし秋風も吹く頃になるとあの長く厳しい冬が思い起され 身が引き締まる。写真はある親族の正月の肖像。女性は着物の上に柄物のコートを羽織り、肩掛けを巻いている。女児や男性は オーバーや(トンビ)マント、中央男性は着物の上に綿入れ。コサック帽は珍しいが、厳寒という点では阿蘇もロシアも同じだ (ただしコサックは中世末ロシアのウマ使いで阿蘇はウシ使い)。そして阿蘇は「寒さは北海道、家は天草」とも言われるように、 この寒いのに皆さんそんな格好(や家)で大丈夫なんですか?と言いたくなる程寒さに無防備だ(身体が頑丈なんだろう)。 私が初めて来た年は零下10度まで下がり水道が3日凍結したが、近所の方々から「最近はぬくくて良かですなあ」とねぎらいの 声を掛けて頂いた。阿蘇は寒いが、人はみな温かい。
写真:塚本サヨ子氏(白水村)所蔵、233白水村吉田、昭和8年1月